生活習慣、人間関係、仕事……長く続けていることほど、やめるのは難しいものです。そうして知らず知らずのうちに、抱える「荷物」が増えていませんか? やめることは決して後ろ向きな行動ではなく、むしろ身軽になって、自分が大事にしたいことがよく見えるようになります。実際に「やめること」で人生に新たな展開が生まれ、働き方や生き方の風通しがよくなった人たちに話を聞きました。

 新型コロナウイルス禍で働き方や暮らし方が大きく変わり、それまで日常の中にあった「当たり前」を見直した人は多いはず。山形県で生コンクリート製造会社を経営している中鉢(ちゅうばち)美佳さんもその一人だ。思いがけない形で中小企業の社長のバトンを受け取り、「経営者はほぼ男性」の業界で奮闘して10年。仕事の延長線上にあるさまざまな「やらなくていいこと」に気づいたら、社長業に対する考え方にも変化が生まれたという。

山形県庄内町の生コンクリート製造会社、三幸の代表取締役・中鉢美佳さん。背後にある会社名の入った建物は「バッチャープラント」と呼ばれるもの。ここで作られた生コンがミキサー車に積み込まれ、工事現場などへ輸送される
山形県庄内町の生コンクリート製造会社、三幸の代表取締役・中鉢美佳さん。背後にある会社名の入った建物は「バッチャープラント」と呼ばれるもの。ここで作られた生コンがミキサー車に積み込まれ、工事現場などへ輸送される

想定より10年早く、社長のバトンが回ってきた

編集部(以下、略) 中鉢さんは、家業を継いで社長になったのでしょうか。

中鉢美佳さん(以下、中鉢) いいえ、違うんです。もともとは、銀行員をしていた父が仕事でお付き合いのあった会社です。父は創業者の方と気が合ったのか、転勤して担当を外れてからも交流が続いていました。あるときその創業者の方が倒れてしまい、奥さまから父に「後継者がいないので、経営を引き継いでくれないか」と連絡があったのです。

 そのとき父はもう銀行を定年退職していたので、承継の話を承諾。いざ会社に入ってみたら、経営状況がなかなか大変だということが分かりました。生コンは工業製品なので、JIS(日本産業規格)に基づく品質の確保が必須です。父には技術的な知識がなく、60代の自分が一人で会社を立て直すのは難しいと判断。私も入社することになりました。36歳のときです。その後父が病で急逝し、私が社長になって今年でちょうど10年になります。

―― 入社する時点で、「いずれは経営を引き継いでほしい」という話もお父様からあったのでしょうか?

中鉢 そうですね。「後継予定者」として入ってほしいという話でした。私は当時、新潟市の総合商社で働いていたのですが、離婚を機に今後のことを改めて考えようと、仕事を辞めて一旦山形の実家に戻っていたタイミングだったんです。それで、軽い気持ちで引き受けてしまいました(笑)。生コンについては私も完全に素人でしたが、分からなすぎて逆に怖さも感じなかったというか……。

 短大を卒業後、いくつかの会社で働いてきて、総務や経理など事務仕事は一通り経験していました。会社の数字は追えるし、年単位で会社を回していく流れも分かる。じゃあ、新しい場所で、マネジメント的なことにも挑戦してみようかな。そんなふうに思いました。

 私が40歳のときに父が病気で余命半年ということが分かって、実際その通りに亡くなりました。あと10年くらいは勉強する時間があると思っていたので、まさかそんなに早く経営を引き継ぐことになるとは思っていませんでした。

―― 生コン製造業というと、ほとんど男性ばかりの業界だと思います。そこで女性が社長を務めるのは、かなり大変ではないかと想像するのですが。

中鉢 その通りです。会社の中も外も、「本当にあなたに会社経営ができるの?」という雰囲気でした。