新型コロナウイルスのパンデミックという100年に1度の危機に直面し、「今こそ誰かの力になりたい」「何か自分にできることをしたい」という思いがわき起こった人も多いでしょう。1歩を踏み出した人たちのケースから、忙しくても無理のない範囲でできる「社会活動」について考えます。誰かのためにと思ったことが、実は自分に大きな何かをもたらして人生を豊かにしてくれます。

 約30年間、日本GEやアイエヌジー生命保険など、名だたるグローバル企業でキャリアを積んできた津田順子さんは、54歳のときに寄付促進などの社会貢献活動を行うパブリックリソース財団へと転身しました。現在は、社会活動を行う公益財団法人の事務局長として働きながら、NPOの女性リーダーを支援する一般社団法人「ポテンシア」を立ち上げ、二足のわらじで社会貢献活動に関わっています。津田さんがなぜ社会貢献を生業とするようになり、どのようにキャリア転換したのかをオンラインの取材で伺いました。

SARSや9.11を経て「社会基盤に根差した強いビジネスに関わりたい」

―― ソーシャルセクターに転身される前は、どのようなお仕事をなさっていましたか?

津田順子さん(以下、敬称略) 私が大学を卒業したのは1984年、男女雇用機会均等法前夜のころでした。学生時代、社交ダンスにのめり込むうちに就職の機会を逃し、社会人のスタートは大学教授の秘書というアルバイトからでした。けれども、ずっと情熱を持って学んでいた英語の力を生かせる仕事がしたいと思い、その後外資系の小さな広告制作会社に就職し、コミュニケーションツール作りが天職だ!と思っていました(笑)。その後、広告制作を発注する側の仕事もしてみたいと思い、ザ・ウォルト・ディズニー・カンパニーの日本法人に移りましたが、91年には夫の海外赴任に同行するため退職しました。

津田順子<br>公益財団法人米日カウンシル-ジャパン事務局長 一般社団法人ポテンシア代表理事<br>つだ・じゅんこ/広島県出身、津田塾大学国際関係学科卒業。 英文広告制作会社を経て、ウォルト・ディズニー・ジャパン、ヒルトンインターナショナル、日本GEで宣伝・広報分野を担当。 アイエヌジー生命保険では広報および人事を経験。公益財団法人パブリックリソース財団 プログラムオフィサーを経て現職
津田順子
公益財団法人米日カウンシル-ジャパン事務局長 一般社団法人ポテンシア代表理事
つだ・じゅんこ/広島県出身、津田塾大学国際関係学科卒業。 英文広告制作会社を経て、ウォルト・ディズニー・ジャパン、ヒルトンインターナショナル、日本GEで宣伝・広報分野を担当。 アイエヌジー生命保険では広報および人事を経験。公益財団法人パブリックリソース財団 プログラムオフィサーを経て現職

―― 日本に戻ってからはどうされましたか?

津田 折しもバブルは崩壊。ブランクもあったため、1年半は派遣などで仕事をしていました。その後、94年にカルティエの日本法人(当時)でマーケティング担当役員のアシスタント、95年からはヒルトンインターナショナル(当時)のPR部門で働きました。ヒルトンインターナショナルでは、インターネットの活用や環境に配慮した経営のPRなどで充実した仕事をしていましたが、SARS(重症急性呼吸器症候群)の流行、米国同時多発テロ事件といった自分たちの努力ではどうにもならないことに遭遇し、社会基盤に根差した強いビジネスに関わりたいと思うようになりました。

 ちょうど、元同僚から、GEジャパン(当時)のPRのポジションの話をもらい、転職を決めました。GEはマーケティングの授業でも必ずケーススタディーに出てくる、しっかりした組織のグローバル企業。全世界から優秀な人を集め、ダイバーシティにも積極的に取り組んでおり、同じ方向を向いて突き進んでいく企業の在り方やマネジメントを学ぶ良い機会だと思ったのです。しかし、その後私が所属した部門が売却されることになり、2008年にアイエヌジー生命保険(現、エヌエヌ生命保険)に転職しました。