「無鉄砲な挑戦」は若者の専売特許ではありません。40代、50代を迎えてから高い壁を越えようと果敢に挑む女性たちがいます。俳優、プロ競輪選手、医師、ワイン醸造家……人生経験を積んでからの挑戦には、20代の挑戦とは違う苦労、そして喜びがあると彼女たちは口にします。何が彼女たちを駆り立てたのでしょうか。年齢の壁をものともせず、新たな使命に向かって突き進む女性たちの挑戦に迫ります。

 「競輪選手を目指してからの日々は、私の人生で一番輝いていたときでした」と振り返るのは、元プロ競輪選手の高松美代子さん(58歳)。2012年に復活した女性選手による競輪「ガールズケイリン」の選手1期生として、2011年、49歳の誕生日に日本競輪学校(当時)へ入学。10カ月間の寮生活を送り、プロ競輪選手としてデビューをしたのは50歳のときでした。

 競技用の自転車に乗り始めたのは30歳を過ぎてから。「でも、ママチャリ歴は長いんです。20代後半から30代前半は、長女を幼稚園に送り迎えするのに計20キロ、次女が別の幼稚園に通い始めてからは計32キロをママチャリで毎日走っていましたよ」とこともなげに振り返ります。小学校で水泳指導員や臨時教員として働くかたわらトライアスロン、自転車競技に熱中した主婦が、50歳を目前にプロ競輪選手を目指した理由とは?

高松美代子(たかまつみよこ)/元女子競輪選手。短大を卒業し、23歳で結婚を機に専業主婦に。35歳でトライアスロンに初挑戦。小学校の講師(臨時教員)として働きながらトレーニングにのめり込み、さまざまな大会で優勝。50歳でプロ競輪選手としてデビューし、51歳で3勝目をあげる(最高齢勝利記録)。2017年、54歳で引退後は、日本競輪選手会指導訓練課でガールズケイリンのサポート業務を行っている
高松美代子(たかまつみよこ)/元女子競輪選手。短大を卒業し、23歳で結婚を機に専業主婦に。35歳でトライアスロンに初挑戦。小学校の講師(臨時教員)として働きながらトレーニングにのめり込み、さまざまな大会で優勝。50歳でプロ競輪選手としてデビューし、51歳で3勝目をあげる(最高齢勝利記録)。2017年、54歳で引退後は、日本競輪選手会指導訓練課でガールズケイリンのサポート業務を行っている

介護、子育てを終えて「遅れてきたおとなの青春」

―― 身体能力が問われるため、若い人が有利と考えられるプロ競輪の世界に飛び込んだのが50歳。なぜ、プロの競輪選手を目指そうと思ったのですか。

高松美代子さん(以下、敬称略) 「競輪選手になりたかった」というよりは、もっと速く走りたい、もっと練習をしたいという思いからでした。「遅れてきたおとなの青春」みたいなものでしょうか(笑)

 23歳で結婚して専業主婦になり、同居をする義父の介護が始まりました。20代で娘が2人生まれ、ママチャリに乗って幼稚園やプレスクールの送り迎えをすること7年。計算すると地球1周分も走っていました。子どもが小学生になってからは、小学校の水泳指導員や臨時教員として働きながら、20歳の頃に憧れていたトライアスロンの大会に挑戦することにしました。

 もともと学生時代は水泳一筋。日本泳法の選手として全国大会で2位になったこともあります。泳ぎはなんとかなると思ったのですが、ランニングは素人なので、まずは娘と一緒に多摩川土手のマラソンコースを走るところから。自転車はママチャリであれだけ毎日走っていたから競技用もいけるかな? という程度。夫が自転車好きだったこともあり、教えてもらいながら始めました。

 初めてトライアスロンに参加したのは35歳のときですが、あっという間にのめり込んでしまって。トライアスロンだけではなく、100キロマラソンや200キロ自転車レースなどにも挑戦するようになり、日本中のあらゆるレースに参加しました。

―― 臨時教員として働きながら、趣味としてトレーニングをしていたのですか。

高松 そうです、あくまでも趣味。かつてはクラス担任を受け持ったことがありますが、日本競輪学校に通う直前は、教員の仕事は半日で終え、それ以外の時間をトレーニングに充てていました。家事も手を抜かずにしっかりやっていましたよ。300キロを自転車で走破する「東京→糸魚川ファストラン」に初めて出たときは、週末分の家族の食事の支度などに追われて一睡もしない状態でスタート地点に立ちました。

 途中で猛烈な睡魔に襲われ、10~15分ほどあおむけになって仮眠を取ってから再び走ってなんとかゴール。それでも、若い女子選手を差し置いてトップの成績。それ以降、いずれも女子の部で「東京→糸魚川ファストラン」は8回優勝、「日本スポーツマスターズ自転車競技大会」も5連覇しています。

 ただ、いつも出ていた自転車の大会「ツール・ド・ジャパン西湖ステージ」で、私と16歳、15歳の参加者の3人が表彰台に上がったことがあって。このままでは、近い将来、この若い子たちに抜かれてしまう。もっと強くなりたい、もっと練習時間がほしい……と思っていたときに、ガールズケイリンの復活を知ったんです。10カ月の寮生活も魅力的。ここに入れば、自転車のメンテナンスも学べる、自転車漬けの生活が送れると思いました。(自転車競技の選手として) もう先は長くない、という開き直りに似た気持ちもありました。

―― 日本競輪学校の受験をすると言ったときの家族の反応はどうでしたか?