人生って理不尽だわ…(涙)。そんな不遇のときが、誰にでもあります。苦手なポジションに配属される、努力が実らない、神様を呪いたくなる不運な出来事。でもそれってもしかしたら、チャンスかも? 与えられた環境で最善を尽くすかどうかが、あなたの「縁」に大きな影響を与えます。今回は、悲劇も喜劇も日常の小さな偶然も、「縁」に昇華するサードプレイス論。安田登式、勘の磨き方まで必読です。

縁は誰かを羨むものではない。自分から生じるもの

 僕たちはつい、縁があれば自分はもっと良いところに就職できるのにとか、縁があれば、憧れのあの人とお近づきになれるのになどと考えますよね。でもそれは、前回お話しした、憎き「因」の呪縛。

 本当の「縁」はその正反対の考え方です。「縁」という言葉はインド生まれで、仏教に由来しています。今の自分が最初にある。縁は、そんな自分から生じるものです。

 僕が大好きな良寛さん(江戸時代後期の僧侶で歌人)はこう考えました。

「花が咲いたからチョウが来た」のではなく、「チョウが来たから花が開いた」のかも。

 ポイントは、良寛さんがそう“意味付け”したこと。花とチョウのなんてことない一瞬が、素晴らしい出来事に変換された。これが縁です。

 「偶然」って結構ありますよね。ふと友人に連絡をしようとしたら、向こうから電話がかかってきたとか。夢に出て来た人と偶然道で会うとか。そこに、どんな意味を付けるか、あるいは付けないかで、縁にもなるし、ささいな日常にもなる。それは自分で決めていい。あらゆることに自由に「意味付け」ができるのは、人間だけの特権なんです。

アウシュビッツでも生きる意味を見つけた博士

 絶望的な場所でも「意味」を見いだした偉人といえば、アウシュビッツに送られたオーストリアの精神科医で、心理学者のヴィクトール・エミール・フランクル。彼の有名な言葉に「あなたが人生に期待するのではない。人生があなたに期待するのだ」があります。

 フランクルは、人が死ぬのはガス室に入れられるからではなく、心の絶望から死ぬんだと言います。そんな彼は、独房にいる間も生きる意味を探し続けた。

 そしてある日、「そうだ、この独房を僕にふさわしい部屋にしよう!」と掃除を始めた。やがて収容所内には、自分の食料を弱っている仲間にあげる人や、演芸会を開いて音楽を楽しもうとする人など、人間らしい姿がまだあることにも気づきます。

 収容所にとらわれるという絶望的偶然の中でも、その日を、その人生を生きる意味を見つけようとする、そして見つけられるのが人間。

 その後、アウシュビッツから解放されたフランクルは、わずか9日間で、強制収容所体験をまとめ、名著『夜の霧』を生み出したそうです。そして、どんな苦悩の人生にも意味があると人々に伝えることを自身の生きる「意味」としたんです。スゴイですよね……。

能楽師の安田登さん。今回は、ついつい他人を羨ましく思いがちな「縁」について考えます
能楽師の安田登さん。今回は、ついつい他人を羨ましく思いがちな「縁」について考えます