インドネシアのろうけつ染め、バティックの技術を残すために心血を注ぐ人がいる。伊藤ふさ美さん、71歳。バティックはユネスコの世界無形文化遺産に登録される、世界に誇るインドネシアの手工芸だが、伝統工芸の宿命とも言うべきか、安いプリントのものに押されて、伝統的な手描きの技術が失われようとしているという。

(上)伝統的な手描きバティックの技を守るため尽力した50年 ←今回はココ
(下)インドネシアのバティックで和服を 71歳染色家の挑戦

 ジャワ更紗(さらさ)の名で知られるジャワ島のバティックは緻密な柄や独特のパターンが美しい。職人が時間をかけて手描きでロウを置き、染めを重ねる伝統的なバティックは手間がかかる分どうしても高価になり、今では安いバティック柄のプリントが市場を占める。

 インドネシア政府も策を講じてはいるが、バティックが売れて職人が生活していくことができなければ、廃業は免れず技術は途絶えてしまう。染色家である伊藤ふさ美さんは、インドネシアに工房を作り、駐日インドネシア大使館と一緒にバティックを世界に広げられないかと日々奮闘している。

異文化伝統工芸交流協会(CCAA)代表理事 伊藤ふさ美さん
異文化伝統工芸交流協会(CCAA)代表理事 伊藤ふさ美さん

バティックを学びたい一心で、あらゆる障壁を乗り越えた

 伊藤さんとバティックとの出合いは、今から遡ること50年以上。伊藤さんの通っていた高校に代理教員としてインドネシアへの第1回国費留学生が赴任し、バティックを見せてくれた。

 「そのときはよく分からない布だな、としか思っていませんでした。その後、女子美術大学に入って日本刺しゅうを学んだものの、私には合わなくて。染色をやりたいと思ったときにバティックを思い出して、インドネシアに留学しようと決めたんです」

 1970年代初頭、日本からインドネシアに行く人はほとんどいなかった。つてを頼って留学を目指したが、書類をそろえるのに1年、ビザが下りるのに1年かかった。

 「大変だったけど、私はあまり深く考えないタイプだから、行きたいと思ったら行くんですよ。両親も『やりたいならやれば』というタイプだったからできたのね」

 1973年にインドネシアへ渡り、ジョクジャカルタ芸術大学に入学。しかし、バティックは既に斜陽産業になりつつあり、大学で技術はほとんど教えない。そこで、スラカルタ(ソロ)にあるバティック工房に知り合いのつてを探し出し、直接交渉して受け入れてもらった。

 「大学の学長と交渉して、1カ月のうち1週間は学校へ来るけれど聴講生にしてほしい。残りの3週間はソロでバティックを学びたいと言ったらOKしてもらえました。聴講生だから試験は免除。私は学生ビザだけが欲しかったんです」

 職人の世界は閉鎖的だが、伊藤さんは持ち前の行動力で運を切りひらく。世話になった工房の主が、ソロのバティックを仕切っている人の親戚だったので、地域の他の工房にもスムーズに受け入れられた。また、当時のインドネシアでは仕事でも生活でも「女性はこうあるべきだ」という意識が根強く残っていたが、外国人ということで大目に見てもらえた。

 例えば、ソロの伝統的バティックはソガという植物から抽出した染料で染めるのだが、女性は布にロウで図柄を描く仕事、染めの重労働は男性と役割が決まっているところ、外国人だからと染めもやらせてもらえた。