田原俊彦さんや少年隊などのヒット曲を多数手掛けた作詞・作曲家 宮下智(とも)こと、ウォーマック夕美子(ゆみこ)さん。結婚を機に36歳で渡米、専業主婦となり、子育てが落ち着いた50代から、米仏でチョコレート製作の技術を専門的に学びます。今回は、ショコラティエとして歩み出したセカンドキャリアと2度の離婚、事業が順調に進んだ直後「何もかも失った」経験について語ります。

(1)トシちゃんからキンプリまで 作曲×チョコ職人の二刀流
(2)渡米し主婦17年→ショコラティエに 仕事の成功と卒婚 ←今回はココ
(3)「ここにあるチョコ全部ください」メリー喜多川の気配り

結婚・出産は、世間が考える “適齢期”の影響を受けた

編集部(以下、略) 36歳での結婚を機に、作詞作曲の仕事を辞め渡米したそうですね。

ウォーマック夕美子さん(以下、ウォーマック) 結婚は2回しているんです。1回目は25、26歳の頃、1年足らずで結婚生活が終わってしまった。女性の年齢をクリスマスケーキに例えるような時代で、世間や周りがいう“女の幸せ”像に流された部分はありますね。

 24歳くらいになると一緒に遊んでいた友達が急に結婚・出産で落ち着き、親や親戚からのプレッシャーも強くなってきて。そのとき付き合っていた人と結婚することになりました。相手は駆け出しのカメラマン。付き合い始めた頃の私は現代音楽の作曲家になんとなく憧れるアルバイトだったのが、歌謡界で作曲家の仕事が始まったことで急に忙しくなってね。だんだん私への当たりがキツくなり、考え方のすれ違いも増えて合わなくなっちゃった。

 2回目の波は35歳前後。私は一人娘なのですが、親からは「孫の顔が見たい」、周りからは「40歳前には子どもを産まないと」と言われ、出産年齢のリミットを意識するようになったんです。34歳頃に友達の紹介で米国人のグラフィックデザイナーと知り合って、その後結婚しました。

―― 作詞・作曲家を引退することに未練はありませんでしたか?

ウォーマック 1990年代には仕事のピークが過ぎ、新しい作家さんも出てきて、これからの生き方をちょうど模索していた時期でした。偶然の縁から始まった仕事でしたし、執着心もなかった。「子育てをするなら米国がいい」と、新しい世界への期待のほうが大きかったです。

―― 米国移住後、音楽活動は続けていたのでしょうか?

ウォーマック 移住後は主婦と子育てがメインで、39歳で娘を産んでからは近所の子どもにピアノを教えたり、頼まれてバイオリンの伴奏をしたりしていました。バージニアに住んで専業主婦をしていた頃は料理にはまっていました。クリスマスプレゼントなどでチョコレートを作ると友達から「おいしいから売ればいいのに」と評判がよくて。

 焼き菓子には興味がないけれど、チョコレートだけは、市販のチョコレートを食べても「もっとこうしたらおいしくなるのに」と自分の意見を持てたんです。子どもが中学生になり手が離れてきた53歳の頃、チョコレートの仕事がしたいと思い学校に行きました。

―― フランスへの留学中は苦労もしたそうですね。