1980年代、20代の頃にジャニーズのトップアイドルたちのヒット曲を多数手掛けた作詞・作曲家 宮下智(とも)こと、ウォーマック夕美子(ゆみこ)さん。結婚を機に36歳で渡米後、17年間専業主婦に。50代でチョコレート職人に転身し事業が拡大しましたが、大規模な山火事による自宅全焼被害に遭い日本へ帰国、トリュフ専門店「世田谷トリュフ」をオープンします。25歳で離婚し36歳で再婚、57歳で卒婚、そして65歳となった今はロサンゼルス~東京間の恋愛が遠距離進行中。波乱万丈な半生を振り返り、人生を味わい尽くす秘訣を聞きました。

(1)トシちゃんからキンプリまで 作曲×チョコ職人の二刀流 ←今回はココ
(2)渡米し主婦17年→ショコラティエに 仕事の成功と卒婚
(3)「ここにあるチョコ全部ください」メリー喜多川の気配り

編集部(以下、略) ウォーマックさんは、田原俊彦さんの「ハッとして!Good」、少年隊の「まいったネ 今夜」など数多くのヒット曲を手掛けた作詞・作曲家です。米国のピアノコンテストで1位入賞、サンフランシスコ音楽院を首席で卒業するなど、将来有望なピアニストだったウォーマックさんが、なぜ作詞・作曲の道に進んだのでしょう?

ウォーマック夕美子さんは作詞・作曲家として活躍後、30代で渡米し出産。53歳から米仏でチョコレート製作を専門的に学び、チョコレート菓子販売を開始早々人気に火がつく。米カリフォルニア州ナパのワイナリーと提携し新商品開発を進めていた60歳のとき、自宅エリア一帯が山火事被害に遭い帰国。2019年トリュフ専門店をオープン。18年にはKing & Princeへの楽曲提供など音楽活動も再開。「何かを始めるのに年齢は関係ない。人生の山と谷の両方を経験した60歳からが一番楽しいです」
ウォーマック夕美子さんは作詞・作曲家として活躍後、30代で渡米し出産。53歳から米仏でチョコレート製作を専門的に学び、チョコレート菓子販売を開始早々人気に火がつく。米カリフォルニア州ナパのワイナリーと提携し新商品開発を進めていた60歳のとき、自宅エリア一帯が山火事被害に遭い帰国。2019年トリュフ専門店をオープン。18年にはKing & Princeへの楽曲提供など音楽活動も再開。「何かを始めるのに年齢は関係ない。人生の山と谷の両方を経験した60歳からが一番楽しいです」

ウォーマック夕美子さん(以下、ウォーマック) 本当は自分の意思でピアノを始めたわけでも、ピアニストを目指していたわけでもないんです。私の母はピアノの先生で、私が小さい頃からピアノを練習していれば喜んでくれました。親の意思で何でも決められてしまう状況が嫌になって反抗を繰り返しましたね。

―― どんなふうに反抗をしたのですか?

ウォーマック 私たちの世代にはビートルズから西洋音楽に夢中になった人が多いと思うのですが、私が中学生だった頃に海外のロック音楽がブームになって。親に内緒で日比谷の野外音楽堂のロックコンサートを友達と見に行ったり、ヒッピー風の髪形に憧れて夜寝る前に細かな三つ編みを編んでくせ付けしたりしていました。

 高校1年で米国に長期留学した後、親はニューヨークにあるジュリアード音楽院へ私を行かせたがっていたのですが、私はロックやヒッピーカルチャーが盛んなサンフランシスコに行きたかった。それで、親の反対を押し切って、サンフランシスコ音楽院に進学したんです。

親に従順だった反動で「自由な世界」に魅せられ家出

―― サンフランシスコ音楽院は首席で卒業。反抗心はあってもピアノに打ち込んでいたんですね。

ウォーマック 小さい頃からピアノを毎日3~4時間、コンクールや大学での試験前などは1日7~8時間弾いていました。でも、ピアノはどんなに練習を積んでも、本番で実力を出せなければ評価されない厳しい世界。サンフランシスコ音楽院で、米国を代表する作曲家のジョン・アダムズ先生に出会って、クリエーティブに自分の好きな音を並べて自由に弾ける作曲の世界に魅力を感じるようになりました。

 親に従順に生きてきた私がロック音楽で自由な世界に目覚め、さらに親元を離れて自由な世界を体験したことで、冒険心が爆発してしまった。1ドル360円の時代に留学させてもらったのに、大学を卒業しても米国で音楽の仕事が見つかるわけでもなく、帰国後、親とぶつかって実家を出ました。

―― 実家を出てからはどんな暮らしを?