大作家になっても書くことに最後まで貪欲だった

―― 寂庵で行っていた毎月の法話も大人気でした。

瀬尾 法話のときは法衣を着ますが、冬の法衣はすごく重いんです。全部自分で着替えますので、年々着るのが大変になっていたのですが、やはり袖を通すとしゃきっとしていました。参加者は、北海道から沖縄まで、ときには海外から参加する方もいて、目の前にたくさんの方が来てくださる。質疑応答をして、皆さんが笑っていい顔をして帰っていかれることが、先生の生きる力の源であり大切なことだったのだと思います。

 コロナ禍で20年2月から法話を中止にしていました。最初は静かでいいと言っていたのですが、人と会うことで元気をもらったり、人前に出ることが活力になったりしていたので、今思うと、コロナ禍の「空白の2年」は影響が大きかったと感じています。私たちは先生をコロナ感染で亡くしたくなくて、来客の制限を厳しくしていたのですが、もっと会いたかった人に会わせていたらよかったのかなと思います。

 たずねていらした編集者と話したことを小説の題材にするなど、日々インプットとアウトプットがありましたが、コロナで私たちスタッフとしか会わなくなって、随筆にしても影響は出ていましたね。「書くことがない」といつも言っていました。

―― しかし、書くことがないと言いながらも、書きたいという気持ちは最後まで強くお持ちだったのですね。

瀬尾 貪欲でしたね。意外ですが、書いたものが「面白い」と言われると素直に喜んでいました。27歳ぐらいからペン1本で生きてきて、400冊以上の本を出して大作家と言われるようになっても、いまだに自分の書いたものが売れたいという気持ちは強い。そこはすごいと思いました。そういう姿勢で書いているところも尊敬していました。いくつになっても、より良いものを書きたいという思いをずっと持っていた。

―― 書くことに貪欲な一方で、年齢を意識し死を身近に感じていることもあったのでしょうか。