入学して1週間で「無理だ」と音を上げた

早川 高校を出たら、ニューヨークの大学に入って映画を学ぼうと思ったんです。当初は、日本の大学に進学しようと思っていましたが、日本の受験システムや教育自体に違和感を覚えるようになって。

 米国の大学は入るのは簡単だけど、卒業するのが大変と聞いて、そちらのほうが理にかなっているなと。それに、海外に行った先の自分の未来がまったく想像できなかったので、そっちに行ったほうが断然、面白いんじゃないかと思ったんです。

 意気揚々と入ったものの、当時はまだ英語が話せなくて、ついていくのに必死でした。映画製作は共同作業なので、英語が話せないとまず意思疎通が図れないんですよね。入って1週間で、「これは無理だ」と音を上げてしまいました

 「写真だったら1人でも製作活動ができるのでは」と思い、写真学科に変更しました。正直、逃げ出したようなものですが、写真も奥が深くて、のめり込みましたね。ただ、頭の片隅にいつも映画のことがあったので、自分でビデオカメラを買って、写真の勉強の合間に撮影していました。

―― 現地ではどんな映画を撮っていたんですか?

早川 映画といっても1人で撮っていたので、ストーリー性があるものというよりは、コンセプチュアルアートのようなものですね。

 その時に思ったのは、やっぱり自分は「ストーリーを描きたい」ということでした。しかも子どもの頃から日本映画が好きだったので、日本で撮影したいなと。大学を卒業したら、帰国して映画学校に通うか、助監督の仕事に就こうかなと考えていましたね。

 そんな矢先、思いがけず子どもができたことが分かって、計画が大きく変わりました。そのまま現地で子どもを出産し、4年後に帰国。冒頭でもお話ししましたが、子育てが始まってから10年ぐらいは、映画作りに携わることができなかったんです。

―― 映画監督になるまで、紆余曲折があったんですね。