2007年にポーラ・オルビスホールディングスの社内ベンチャー第1号として設立された、ディセンシア(DECENCIA、東京・品川)。敏感肌に特化した化粧品ブランドとして急成長を遂げていますが、その躍進を設立当初から支えてきたのが18年に社長に就任した山下慶子さんです。生え抜きでも中途社員でもなく、派遣社員から社長に昇りつめたという山下さん。その独自の仕事観から、ディセンシアに入るまでの経歴もユニークです。山下さんがこれまで歩んできた道のりや、派遣から社長へとステップアップするまでの舞台裏を聞きました。

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(下)ディセンシア社長 社長に向いてない私だからできること

皆がいいものは選ばない。こじらせた青春時代

―― 山下さんは、ディセンシアに入る前はどのようなキャリアを歩んできましたか?

山下慶子さん(以下、敬称略) 子どものころから「人と違うこと」にしか興味がなくて、皆がいいと思うものは選びたくないというタイプでした。今、振り返ると非常にこじらせた青春時代を送っていて、完全なモラトリアムだったなと思います。大学時代の就職活動では、「やりたいことがないまま就職するのは違う」と思い、ならば日本を飛び出して視野を広げてみようと中国・北京の大学に留学しました。中国を留学先に選んだのも、「行く人がほとんどいないから」という理由です。

 留学先では、欧米、アジアなど世界各国からさまざまなバックグラウンドを持つ学生たちが集まっていて、彼らと話すたびに「日本ってどんな文化を持っているの?」「あなたは何が得意で、何をテーマに学んでいるの?」などと聞かれました。常に「あなたは何者なのか?」と問われている気がして、「確かに私は日本人としてのアイデンティティーは持っているけれど、まだ自分自身のことを何も理解できていない」と痛感。そろそろ自分探しのモラトリアムはやめて、自分が何者かを明らかにするためにも「就職しなきゃ!」と思ったんです。

―― 就職先はすんなりと見つかりましたか?

山下 留学期間を終えて、実家がある熊本の天草に戻ったんですが、田舎ということもあり、就職先が豊富にあるわけではなく……。しかも2000年の末ごろで就職氷河期の真っただ中というのと、私自身それまで職歴が全くないことからかなり苦戦しました。

 そんな時に旅行会社の求人を見つけ、上場前のベンチャー企業で勢いもあるし、自分の海外経験が旅行業界に生かせると思い、エントリーしました。東京で面接を受けることになって、「あれ? なんで九州じゃなくて東京で面接があるんだろう?」と不思議に思っていたら、なんと地元・九州の営業所に応募したつもりが、間違って関東の営業本部にエントリーしていたんです。ひとまず面接だけでもと思い、上京して採用試験を受けると合格。契約社員としての採用でしたが、まさか自分が東京で仕事をすることになるなんて夢にも思っていませんでした。

山下慶子(やました・よしこ)
山下慶子(やました・よしこ)
1976年生まれ。鹿児島女子大学文学部を卒業後、北京清華大学へ留学。2000年、旅行代理店入社。05年に退職後、アーティストとして絵を描くかたわら、派遣社員として実務経験を重ねる。2007年にポーラ・オルビスホールディングスに派遣。同年、ディセンシアに出向し、正社員となる。15年にCRM統括部長、17年より取締役に。18年1月に代表取締役社長に就任。

―― 勘違いがはからずもその後の道を開いてくれたんですね。そこからどんな社会人生活が始まったんですか?

山下 旅行会社では、外国人向けに航空チケットなどを販売する職場に配属となり、私は中国人担当として顧客対応に励みました。厳しくも部下への愛情が深い上司のもと、お客様に旅を提供するこの仕事にやりがいを感じていましたが、4年の月日がたち、都心の大規模な店舗に異動になると、ふと「私はこのままずっと航空券を売り続けるのだろうか?」と疑問がわくようになったんです。

 ちょうどその頃、「自分の中に浮かんでくるイメージを絵にして描き留めたい!」というクリエーティブな衝動がわき出ていた時期で……。仕事から帰って朝4時まで絵を描き続け、翌朝9時に出社する日々を続けるうちに、チケットを売るよりも絵を描くほうが面白くなってしまいました。大胆にも、職場の人たちに「これからは絵を描いて生きていきたいので辞めます」と告げ、退職しました。

―― それは職場の方たちも、さぞかし驚かれたでしょうね。その後はどんな生活を?