日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う新たな一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気付きや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「女性活躍」。

感動を呼ぶ「自己実現の場」に潜むゆがみ

 過酷な試練に耐えて頑張る人を応援する、という娯楽がある。高校野球とか宝塚とかアイドルとか。夢に挑戦するけなげな姿は、見る人に何か「清いものを見た」と思わせる効果があるらしい。感動ポルノと批判されることもある。

 私は今、職場における「女性活躍」の取り組みが、そうした娯楽と同じような形で消費されることを懸念している。

 くしくもこれら3つに関連する分野では、構造のゆがみが露呈している。ここ数年の報道でも、スポーツの「爽やかな汗と涙」の現場で、パワハラや暴力が日常化していることが明らかになったし、つい最近も宝塚音楽学校の「清く、正しく、美しい」学びやで、上級生が下級生に理不尽なルールを課す伝統が見直されることが報じられた。芸能の世界で働く人たちが、不当な契約や慣習によって、弱い立場に置かれていることも明らかになってきた。大人のビジネスに過剰適応し、体や心を壊して辞めるアイドルも後を絶たない。

 「いや、本人が望んだ道で頑張っているのだから応援すべきだ!」「好きでやっていることなのに、批判するのは失礼だ!」というのはよく聞く理屈だが、本人が一生懸命だからこそ、周囲が冷静に判断しなければならない。本人は「これは自分で決めたことなのだから、弱音を吐いてはいけない」と信じている。あたかもそこに正義があるかのようなストーリーをたたき込まれ、敵は自分自身だと言い聞かされ、決して構造を疑わないように追い込まれているのだから当然だ。追い込んでいるのは誰か。多くの場合は、その構造で楽をしたり、金もうけをしたりする人びとである。

 搾取の構造に目を向けさせない方法の一つに、構造の内部を階層化し、競わせるというやり方がある。搾取の現場があたかも「自己実現の場」であるかのように本人にも周囲にも錯覚させ、どんなに理不尽な目に遭っても、それは克服すべき試練であると思い込ませるのだ。