日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気づきや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「大人のかわいさ」。

「慶子さんの声、やっぱりかわいいよね」

 最近、「かわいいですね」と言われたことはあるだろうか。いや別に言われたかねえよという人もいるだろうが、かつては挨拶代わりに言われていた人も、40代、50代ともなればそんな機会もそう多くはないだろう。

 かわいさを「愛らしさ」と定義するなら、世の中のすべてのものを「かわいい」と「特段かわいくはない」で分けた場合、私は後者に分類される。実際、子どもの頃は「かわいげがない」とよく言われた。だから、前者のグループ入りを期待することもなく生きてきた。しかし先日、不意打ちを食らったのだ。

 私のポッドキャストを聴いた友人が言った。

「慶子さんの声、やっぱりかわいいよね」

「な……なんと?」

 それまで「いい声ですね」と言われたことは何度かあったが、かわいい声と言われたのは50年の人生で初めてのことだ。彼女は人の声質に敏感で、俳優などを好きになる時にも声から入る人である。そんな目利きならぬ耳利きの友人に言われて、初めて知った。かわいい私というのが、いたんだ、ここに……。そっと喉に手を当てて、不思議な感慨に浸った。

 それから夜の街を歩いている時に、朝起きて冷蔵庫を開けた時に、風呂上がりに髪を乾かしている時に、ふと友人の言葉を思い出してうれしくなっている自分を発見した。

 おまえ、まさかかわいいと言われたかったのか?

 実はずっとそう望んでいたのか?

 と自問した。そして発見した。私は「かわいげがない」と言われて傷ついていたのだ。ひそかに、半世紀近くもの間。

 それは「ひねくれている」「素直ではない」「反抗的だ」などの意味を含んだ非難の言葉だった。言われるたびに自分が嫌いになり、他人が怖くなった。だから、声に宿るかわいさを友人に発見してもらって、救われたのだ。私はかわいげのないやつではなかった。素朴な命のありようが、ちゃんと声に表れていた。私は、他者に開かれていた。本当は開かれた自分でいたかったのだ。ずっと、幼い頃から。

かわいげマックスだった頃の私。生まれた時は3800グラムでした
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