「選ばなかった道」を今ごろ羨ましく思うとは

 だけど、だけど。もしも何かの縁で違う道を歩んでいたらと、ふと考えることがある。例えば街で、いかにも稼ぎの良さそうな品のいい男性と歩いている幸せそうな妻を見たとき。私の夫はスーツを着る仕事ではなかったけど、毎日スーツを着て仕事に出掛ける人と、しかも出世街道まっしぐらみたいな人と結婚して、夫を誇りに思いながら家事と育児にいそしんで、あくせく働く苦労も知らずに生活する人生だったら。ああ、それこそ私の母や姉が体現した“女の幸せ”で、若い頃の私が全力で否定した生き方ではないか。それを47にもなって羨ましく思うなんて、どうした慶子。それじゃ多摩丘陵の新興住宅地で、港区渋谷区世田谷区の住民に憧れて暮らしていた10代の頃と何も変わらないじゃないか。大学生になって失恋を機に一念発起、男頼みの人生と決別しようと就活に入魂して、めでたく自分で働いてお金を稼ぐようになったことを誇りに思っていたのではなかったか。

 私の尊敬する年上の友人に、バリバリ働いて非常に高い社会的地位についている女性がいる。彼女は極めて自立した女性で、ジェンダー平等実現のために今も職場で果敢に闘い続けている。しかしそんな彼女も時折ふと、心の中の女の子が顔を出すことがあるそうだ。「ねえ、そんな人生で幸せなの? 東京なんか出てこないで、地元のいいお家の人と結婚して、優雅な奥様になっていたら、こんなしんどい思いしなくて済んだんじゃないの? ジェンダー平等とか、そんなことで精神をすり減らさなくてもいい人生があったのに」と。

 それを聞いて、もしかして私の中にもそんな女の子がまだ生き残っているのかもしれないと思った。そしてそれを裏付けるようなことが起きてしまったのだった。