日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う新たな一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気付きや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「証明写真」

 証明写真が必要になった。撮影しなくてはならない。数年前の免許の更新の時はその場での撮影だったから、撮影者との居合抜きのような呼吸合わせに失敗して、やつれ果てた顔になった。免許の写真なんてめったに人に見せるものでもなし、どんな写りでもいいのに、なぜか写りが悪いと撮影者を恨む気持ちが湧いてくる。

 身分証明に使う写真は、他人に対して自分を証明するだけでなく、自分に対して己が何者であるかを示す作用もあるような気がする。だから、なんだか気に入らない写真だと「これは私じゃない」という気持ちになってくるんだろう。やつれ果てた顔で身分証明をするのが嫌なのは、人生にはやつれ果てる時もあればそうでない時もあるからだ。楽しい時とか機嫌のいい時の自分でいたいじゃないか、できればいつも。

昔ながらの写真館で撮影した私の顔は…何かが違う

 今回は自分で写真を用意するんだから、気に入ったものを持っていけばいい。しかしいかんせん時間がない。書類に写真が必要だと気付くのが遅すぎた。ええとええと、写真ってどこで撮ればいいわけ? と近所のスタジオに片端から電話したが、なぜかどこも予約でいっぱいで、ようやく見つかったのはちょっと離れたところにある古い写真館。行ってみると、どうもお受験写真とかが得意のようだ。由緒正しい昭和の名家の人々みたいな感じに撮るのが売りらしい。でもまあ、証明写真だから無機質な感じで撮ってくれるだろうと思ったが、仕上がりはやはりクラシックであった。照明とかいろんな工夫でこういうトーンにしてくれているらしい。

 これまでに撮影したどんな写真とも違う初めてのテイストの自分の顔を見ながら、もしも「いいところのお坊ちゃん」と結婚して厳しいお姑(しゅうとめ)さんのもとで旧家の嫁として49歳まで生きてきたら、こんなコンサバな感じの顔が「いつもの私」になっていたのかもなと、ついあったかもしれない人生に思いをはせた。いや、あったはずじゃない。お坊ちゃんなんかと付き合うチャンスはなかったし、付き合おうとしたこともなかった。一度くらい、付き合っておけばよかったよ。

 見たこともないお上品マダムな自分の顔を見ながら、これをこの先数年使う書類に貼るのはどうだろうかと考えた。たまたまそれを持っているときに行き倒れたら、この写真でニュースに出るのかもしれない。家族も書類を見せられて「お母さんですか?」とかって確認されるのかもしれない。その時にきっと息子たちや夫は「うーん、これ、なんか知らない人みたいな写りだな。普段こんな感じじゃないんだけどな」と微妙な気持ちになるだろう。それで身元確認というのでは、私も浮かばれない。