日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気づきや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「生誕半世紀」。

生誕半世紀、初めて年齢欄に「50」と書いた書類は

 50歳になった。ようこそ5の世界へ! というARIA読者も多いだろう。姉さん、彼岸に渡りましたね……という40代の皆さんもいるはずだ。まあ、半世紀生きたというのはなかなかに感慨深いものである。もはや日本の歴史だ。

 沖縄返還、あさま山荘事件、日中国交正常化……1972年はいろんなことがあった。首相は田中角栄。私はそんな時代に、父の転勤先のまだ白豪主義(白人優位政策)だったオーストラリアで生まれたアジア人の赤ん坊だ。ちなみに田中首相が1974年にオーストラリア各地を訪問した際、領事館の歓迎式典かなにかの席で、2歳の私は角栄氏にほっぺたを突かれているらしい。

 初めて年齢欄に「50」と記入した時はおお、と小さな衝撃があった。私の頭の中では数字に色が付いているのだが、赤みの強いピンク色の4と濃い黄色の9のコンビから、黒に近いネイビーの5とシルバーみを帯びた白の0のコンビに変わったので、一気に重量感が増した。なんだか超合金ぽい。

 それが入院手続きの書類だったというのも割とヘビーな印象の一因だろう。誕生日の前日に、体の数カ所に軽いしびれを感じたので念のため近所のかかりつけ医を受診したら「すぐに検査したほうがいいので提携先の病院のER(救急医療室)に連絡します」と紹介状を書いてくれた。その足で病院に向かい、CTやらMRIやらいろんな検査を受けた。結果、今すぐに命に関わるような異常はないけれど、今後しびれが増進する可能性もゼロではないので念のため経過観察をしましょうとその場で入院が決まった。

 私は人体の仕組みを知るのが好きである。自分の不調が何によるものなのかを解明するにあたっても、不安よりも好奇心のほうが強い。しかし生誕半世紀当日に入院しているというのはなかなかに示唆的であった。これからは命ともっと丁寧に向き合いながら生きるフェーズに入ったなと思った。

 それから2日ほどかけて詳しい検査をした結論は「特に問題ないので様子を見ましょう。あまり気にしすぎないように」であった。だが細かく調べたものだから今まで気づいていなかった身体のささやかな変化も見つかり、なるほどこれが老いというものであるかと、また感慨を深めたのであった。

 この年齢になると、周囲に健康の問題を抱えている知人も増える。亡くなった人もいる。それが自分ではないとは全く言えないということを50歳の節目で教えてくれた体には、感謝しかない。

オーストラリア・パースの家族がバルーン付きのお花を手配してくれました。ギフトは、夫からは貝のピアス、次男からは桜の花入りペーパーウエイト。長男からの特注バースデーブックはいまアメリカからの配達中のようです。楽しみ
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