日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う新たな一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気付きや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「生理の記憶」。

母のイメージは、黒みがかった真っ赤なバラだった

 母の日に、息子たちから花が届いた。オーストラリアから、日本のお店のサイトで選んで、手配してくれたのだ。夫が提案してくれたのだという。鮮やかなピンクの八重咲きのベゴニアで、一気にベランダが華やいだ。パンデミックで会えなくなって1年あまり。しみじみうれしい。

 私も、老いた母に花を贈った。喜んで電話をかけてきてくれた。母とは、色々あった。かつて本にも書いたけれど、いわゆる過干渉だった。今でもかなり気合を入れないと、母とは話せない。よほど元気のある時でないと、生気を吸い取られてしまう。

 いつも赤いマニキュアを塗っていたからか、母のイメージは黒みがかった真っ赤なバラだった。母の加齢とともにバラの色は次第に柔らかなピンク色に変わったけれど、それでも話すのにはエネルギーを使う。だから、たまに電話をするぐらいでちょうどいい。

 赤いバラの印象は、母の経血を見たからかもしれない。うんと幼い頃、私は母にまとわりつき、トイレの中までついていった。ある時母は、血のついたナプキンを見せてくれた。幼い私は、母を生臭い存在のように思った。鮮やかな血の色は今でも記憶に残っている。付きまとう幼子に手を焼きながら、ナプキンを交換したのだろう。生理がタブーだった世代にしては、先進的な教育だったと思うべきか。

 今、生理の話をオープンにしようと盛んに言われている。生理の貧困も、深刻な社会課題として取り上げられるようになった。これまで生理は隠すべきこととされ、問題はなかったことにされてきた。健康に関する話なのに、男性からは性的なまなざしで見られる。そして女性同士でも、たまに「生理痛がひどい」などとぼやきあうぐらいで、あまり積極的には語られてこなかったように思う。

 先日、同い年の友人と閉経への不安を語り合った時、互いの初潮体験を初めて打ち明けた。早熟だった彼女と、もしも小学生の時に出会っていたら、私は引け目を感じていただろう。以来彼女は私の中で、ひそかに「生理先輩」になった。