日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん(コロナ禍で日豪の行き来が難しくなり、ひとり日本にとどまって家族と会えない生活はついに丸2年に)。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う新たな一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気づきや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「膣(ちつ)リスペクト」。

なぜ膣だけが声をひそめて語られねばならないのか

 かねて気になっていた。膣(ちつ)の地位が、低すぎやしないだろうか。最近はメディアでも見たり聞いたりする機会が増えたが、どうも「子宮」や「卵巣」よりも何やら湿り気を帯びた、忌み言葉のように扱われている気がしてならない。

 子宮や卵巣は「生殖」の色合いが強いけれど、膣はセックスや「エロ」の文脈で捉えられることが圧倒的に多いように思うのだ。セックスに使う部位が恥ずかしいなら、手も口も脳みそも相当恥ずかしい部位になるけど、そうは扱われない。なぜに膣だけが、声をちょっとひそめて動揺と共に語られねばならないのだ。これは私自身が学習してしまった所作なのかもしれないが、いかにも前近代的だ。

 もっと、膣にリスペクトを。かねて、閉経に祝福を! ネガティブなイメージに閉じ込められた更年期を解放せよ! と訴えている私だが、それには「膣リスペクト」が不可欠だと、声を大にして言いたい。

 なぜ膣は、恥ずかしいのか。同じ管でも、食道や直腸よりも語りづらいのはどうしてだろう。産道と言う時は恥ずかしくないのに、膣となると急に「とんでもないことを口走っている」感覚になる。膣を語ることは性行為を語ることとほぼ同義だと感じるからだろうか。社会の主流である異性愛男性の欲望の対象として、その弾力性や粘膜の凹凸や湿り気がただ男性の快感を増すための「性能」として語られ、女性もそうと信じ込んできたのではないか。

 でも当然ながら、膣は誰かの射精道具として存在しているわけではない。生理の時には古い子宮内膜を排出し、分娩の時は子どもが通り、日ごろから粘液を分泌して、体の健康を維持する大事な働きがある。膣の主人は、そこに挿入される性器の持ち主ではなく、膣と共に長い人生を生きる当人だ。

先日、とあるメディアの企画で更年期について取材を受けました。更年期の体のことを安心して語れるようにしよう、一人で悩まずつながろう、という思いのあふれた現場で、しみじみうれしかったです
先日、とあるメディアの企画で更年期について取材を受けました。更年期の体のことを安心して語れるようにしよう、一人で悩まずつながろう、という思いのあふれた現場で、しみじみうれしかったです