日本で働き、オーストラリアで家族と過ごす「往復生活」をしている小島慶子さん(コロナ禍で日豪の行き来が難しくなり、ひとり日本にとどまって家族と会えない生活はついに丸2年に)。子育ても終盤にさしかかり、「これまでとは違う新たな一歩」を踏み出しつつある小島さんが、新たな気づきや挑戦を語っていきます。今回のARIAな一歩は、「お化けの正体」。

「おまえらタダで入ってくるんじゃねえ、出てけ!」

 以前、古民家をリノベした宿に一人で泊まった時のこと。超夜型人間ゆえ、旅先でも早寝はできない。周りはのどかな田園で、部屋にテレビはない。田舎の夜は静かで暗い。それはいいのだが、私はお化けが怖いのだ。元は蔵だったという築300余年のその部屋は、屋根まで吹き抜けで太い梁(はり)がむき出しになっており、ベッドのある2階から1階を見下ろせる開放的な造りになっている。狭いホテルの部屋と違って、死角がたくさんある。想像が膨らむ余地が多すぎる。夜中の3時ごろ、ベッドの足元から何者かが連れ立ってこっちに来るような気がした。

 まずは「落ち着け、お化けは脳の中に住んでいる」と自分に言い聞かせた。今、なんかの気配がしているのは、私の脳がそう妄想しているからだ。つまりは脳の設定を変えなくてはいけない。そこで私は己の脳みそと、それが生み出した何者かの気配に向かってこう言った。

 「あのな、ここは今夜は私の縄張りだ。生きてても死んでても、人間でも人間でなくても、宿代払ってないやつは一歩たりとも入るな! この部屋にいくら払ったと思っているんだ。思いつきで直前予約したから、残室僅かですごく高かったんだぞ。寝ずに働いて稼いだ金で泊まってんだ、おまえらタダで入ってくるんじゃねえ、出てけ!

 そしたら気配がすっかり消えて、すとんと眠りに落ちることができた。脳がリセットされたのである。私の脳は、金勘定で現実を認識するらしい。妖怪も古代の怨霊も、カード決済画面の数字にはかなわなかった。

 のちに見たEテレの仏教特集で、古来伝わる“瞑想(めいそう)中に恐ろしい魔物が現れた時の対処法”を紹介していたが「大声で叱りつけ、正体をしっかり見て、強い意志の力で拒む」のが肝心らしい。私がやった“宿代払ってないやつは部屋に入ってくるな論法”は、世俗にまみれた主張とはいえ、自分の脳の設定をリセットする試みとしてはあながち間違ってはいなかったのだろうと、勝手に合点している。

1990年夏、父が駐在していたインド・ニューデリーにて。18歳になったばかりの私にとって、忘れがたい旅となりました。上の写真が、父が暮らしていた社宅の庭の隅で撮影したもの(この写真にまつわる話は後半で……)
1990年夏、父が駐在していたインド・ニューデリーにて。18歳になったばかりの私にとって、忘れがたい旅となりました。上の写真が、父が暮らしていた社宅の庭の隅で撮影したもの(この写真にまつわる話は後半で……)