オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。
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『アタックNo.1』に憧れて
―― ソウル、バルセロナ、アトランタ五輪に出場し、日本のエースアタッカーとして絶大な人気を誇った大林さんですが、バレーを始めたのは意外なきっかけだったとか。
大林素子さん(以下、敬称略) 幼稚園の頃から頭一つ抜けるほど背が高かったので、小学生時代にいじめに遭っていたんです。「デカ林」「でくの坊」と男の子たちにいつもからかわれていました。うちは母子家庭。母はプロダンサーとして常に忙しく働いていたので、子ども心に心配をかけてはいけないとその悲しさを自分の胸にしまい込んでいたんです。
でもやっぱりつらくて、住んでいたマンションの屋上に上がり、何度か靴をそろえたこともありました。でも、11階の屋上から下を見るとなぜか着地できそうな気がして……(笑)。
外に出るとからかわれるので、当時の私は引きこもりのテレビっ子。テレビの向こうの華やかさに憧れ、私も女優になりたいなんて夢見ていました。小学4年の時、アニメの『アタックNo.1』が再放送され、背が高いのが武器になると開眼。私は(主人公の)鮎原こずえになって、いじめた子たちを見返してやると決めたんです。
そう思って中学でバレー部に入ったけど、練習についていけない。中学2年の時に、たまたま手にしたバレー雑誌で、名将とうたわれていた故山田重雄監督率いる日立製作所のバレーチームの練習場が家の近所と知り、山田監督に手紙を書きました。