プロ化が認められず解雇。イタリアへ渡る

大林 1992年のバルセロナ五輪の頃から、日本のバレーは世界では通用しなくなってきていると感じていました。ソウル以降の4年間はメダル無しの悔しさもあり、これ以上練習ができないというほど追い込んできたのに5位。

 海外の選手は結果で評価されるプロなのに対し、日本は実業団だから勝っても負けても給料は補償されている。そこに甘さがあると考え、私たちは日立製作所にプロ化の要求をしました。1994年のことです。会社からは「Vリーグが終了したら考える」と言われていたのに、リーグ開幕直前に私と吉原知子が突然、解雇を言い渡されました。そしてすぐ体育館から出ていけ、と。

バレーを始めたときの反骨心が復活

大林 プロ化を認めたくない会社から見せしめにされたんでしょうけど、マスコミがずっと家を取り囲んでいたので外にも出られず、まるで犯罪者のような気分でした。でも、このまま終わってたまるか、という気持ちも日に日に強くなった。小学生の時にいじめた子たちを見返してやりたくてバレーを始めたときのような反骨心がまた芽生えました。

 そしていろんなルートをたどり、イタリアに渡りました。イタリアでのバレーは楽しかったなあ……。ただ、1996年にアトランタ五輪があるので半年で帰国し、五輪に出場。メダルは獲得できませんでした。翌1997年に29歳で引退しましたが、バレーへの未練は全くありませんでしたね。

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取材・文/吉井妙子 写真/洞澤佐智子