名将・山田監督に送った「五輪選手になりたい」

大林 「左利きでバレーをやっています。将来は五輪選手になりたい」って。すると、山田先生からすぐに電話があり、一緒に練習をしないかと誘っていただきました。この時、手紙を書かなかったら、私はずっと身長の高さをコンプレックスに、暗い人生を生きていたんじゃないかと思いますね。

―― 当時、日立製作所の練習の厳しさは有名でした。ついていけましたか。

大林 中学の部活が終わってから毎日通って練習をしました。江上由美さんや中田久美さんなどロサンゼルス五輪のメダリストたちと一緒に練習するのは刺激的でしたし、この人たちについていければ五輪に出場できると思っていたので、とにかく食らいついていこうと。365日中360日は練習があり、1年中バレーのことばかり考えていましたね。

 なかでも印象的だったのは、ソウル五輪直前の練習。当時の日本女子バレーは、金メダル以外価値はないという考え。私たちは最大のライバルを旧ソ連とにらみ、男子選手を旧ソ連の選手に見立てて練習していました。その頃、韓国では反日感情が強かったので、ソウル五輪の会場には激しいブーイングが起こると想定し、甲子園で行われた阪神対巨人戦の応援をテープに収録し、それを体育館に流しながら練習していたんです。でも、ある時、男子チームに接戦の末負けてしまいました。

「テレビの向こうの華やかさに憧れ、私も女優になりたいなんて夢見ていました」という夢をかなえ、今は舞台にも立っている
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