家族で毎月行った「演芸大会」で磨いた表現力

  山崎 実は私、運動音痴だったんですよ。走るのも球技も不得意だったんですけど、テレビから音楽が流れると自然に踊り出す子どもでした。そして毎朝、学校に行くときにその日の気分を母の前で表現する「行ってきますの踊り」を玄関先でやっていたんです。

 父は国語の教師。私は3姉妹の末っ子で、毎月1回家族5人で「演芸大会」もやっていました。みな必死に毎月の出し物を考えるんです。そんな環境で育ったせいか、人前で表現することに何の抵抗もなかったですね。

 私が進学した女子高は新体操が強かった。それまで新体操という競技も知らなかったけど、私に合っているかもと入部。でも、入ってみたらめちゃくちゃ練習も規律も厳しく、1年の冬には辞めたいと思いました。先輩に気持ちを告げると、「厳しく指導する先生の意図が分からない人は、今すぐ寮から出て行け」と言われたけど、種子島で育った私は(高校のあった)鹿児島市内には親戚もいないので、行く場所がなかった。それでまた続けることになったんです(笑)。

 でも、2年の時にインターハイで優勝。試合の前、厳しかった先生に「あれだけの練習をこなしてきたから絶対に大丈夫よ」と頭をなでられ、先生の厳しさの理由が分かった気がしました。演技がうまくいった快感を知って以来、新体操の面白さに目覚め、20歳の時から日本選手権で5連覇しましたが、24歳で出場したロス五輪を最後に引退しました。