オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

(上)五輪スイマーが見た紛争や貧困…国連職員に転身して奔走 ←今回はココ
(下)五輪で取れなかった金メダル。人道支援の道では負けない

井本直歩子(いもと・なおこ)
井本直歩子(いもと・なおこ)
1976年、愛知県生まれ。1996年にアトランタ五輪に出場し、競泳自由形リレーで4位入賞。2000年シドニー五輪代表選考会後に引退し、米国南メソジスト大学に留学・卒業。慶応義塾大学へ復学・卒業後、英国マンチェスター大学大学院へ。JICA(国際協力機構)のインターンとしてガーナに赴任。2007年からUNICEF(国連児童基金)職員となりスリランカやハイチなどへ。2016年からはギリシャに赴任

「弱い子を守るガキ大将」が原点

―― 1996年に競泳選手としてアトランタ五輪に出場し、2000年に現役引退。その後、JICA、あるいは国連職員として、紛争地帯や難民救済など緊急支援を要する国・地域で援助活動を続け、これまで10カ国の紛争地帯に赴任されています。その功績が認められ、2009年に『ニューズウィーク日本版』が選ぶ「世界が尊敬する日本人100人」に選出されました。そもそもオリンピアンの井本さんがなぜ、紛争復興支援の道を選んだのですか。

井本直歩子さん(以下、敬称略) 子どものころから体が大きく、足も速かったし水泳もうまかったので、地域のガキ大将でした。弱い人を守るというのがガキ大将の務めと思っていたので、私の心根には困っている人がいると看過できない性分が根付いているんだと思います。でも、水泳をやっていなかったら、今のような活動をすることもなかったでしょうね。

 水泳を始めたのは3歳から。すぐに頭角を現し、母から「あなたは将来オリンピック選手になる」と言われ続けてきました。母の刷り込みが効いたのか、幼稚園の卒園文集にすでに「将来の夢はオリンピック選手」って書いているんですよ(笑)。

 小学6年の時にジュニア五輪で学童新記録を樹立して優勝。直後に開かれたシニアの大会でも3位。当時、大阪のイトマンスイミングスクールが五輪選手を輩出していたので、五輪への道を確実にするには、東京の実家を離れて一人で大阪に行くしかないと思っていました。

―― 小学6年でよく親元を離れる決断ができましたね。ご両親は反対しませんでしたか。

井本 親には「自分で決めなさい」と言われました。自分で決めないと、失敗した時に他人に責任を転嫁してしまうからって。ただ、練習はつらいし、先輩は上下関係にうるさかったので、中学1年の頃は寮でよく泣いていました。でも、ここを乗り越えなければ五輪に行けないからと、実家に帰りたいとは一度も思わなかったです。