オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

(上)ロス五輪で逃したメダル…36年たっても見る惜敗の夢
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17歳で留学、米国で学んだこと

―― 1984年、16歳で出場したロサンゼルス五輪で4位入賞。そこで水泳には一区切りつけたはずなのに、なぜまた競技を再開したのですか?

長崎 痛手を負った五輪だったのに、米国のチームメイトからは「五輪選手であることをなぜ誇りに思わないのか」「4位入賞はとてもすごいこと」と言われ、ロス五輪の頃に体が万全でなかった反省もあったので、本格的なトレーニングを始めたんです。

 米国で出会った水泳仲間たちは、きつい練習もこなすけど、パーティーや娯楽も大事(笑)。心の切り替えが巧みでした。私も彼らと同じようにタフな練習をこなしていたから体が大きくなり、五輪選手も複数出場する全米学生選手権で優勝。大学のコーチからは次のソウル五輪に出場するよう勧められ、出場切符を占う日本選手権に出場するため、帰国しました。

長崎宏子(ながさき・ひろこ)
長崎宏子(ながさき・ひろこ)
1968年、秋田県生まれ。小学生時代から頭角を現し、12歳でモスクワ五輪代表に。1984年ロス五輪では平泳ぎ100m6位、200m4位入賞。秋田北高を中退し、米国に留学。カリフォルニア大学、ブリガムヤング大学でスポーツビジネスを学ぶ。1988年にソウル五輪出場後、引退。日本オリンピック委員会勤務を経て乳幼児と親が一緒にプールに入る「ベビーアクアティクス」を創設し、講師として活動

長崎 でも、がっちりと大きくなった私の体を見た日本人関係者から「こんなに太ったら泳げない」「アメリカかぶれしている」と陰口が聞こえてきました。米国では伸び伸び水泳していたのに、また萎縮してしまったんです。私は周りを異常に気にしちゃうタイプだったんですよ。ソウル五輪の選手には選ばれましたが、心が萎縮した時点で結果は見えていました。予選落ちでした。

 「幻のモスクワ五輪」(1980年)は、日本が出場を辞退した後に代表に選ばれたので、正直なところそれほど思い出はないんです。その後、ロス、ソウル五輪に出ましたが、実は、次のバルセロナ五輪にも挑戦しようと思っていたんです。ですが、思うようにタイムが伸びず、限界を感じて1991年に引退を決意。迷いはありませんでした。五輪では結果を出せなかったけど、それでも日本選手権では平泳ぎ200mで8連覇、100mでは7連覇しているんですよ(笑)。

―― 引退と同時に日本に帰国。日本オリンピック委員会(JOC)の職員になりましたね。

長崎 当時JOCが日本体育協会(現・日本スポーツ協会)から独立したばかりで、日本の閉塞的なスポーツ界に新たなうねりを起こせるのでは、と思って入りました。乱暴な言い方をすれば、その頃の五輪メダルは、国威発揚的な見方がまだ残っていて、選手はその手段でした。