オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。今回は、日本バスケットボール協会会長として、東京五輪での銀メダル獲得をけん引した三屋裕子さんです。
(上)女子バスケ準決勝で頭に浮んだ苦い記憶… ←今回はココ
(下)バレー選手→教員→社長→バスケ協会会長 経験は生きる
ロス五輪がフラッシュバックした東京五輪
―― 東京五輪を沸かせた女子バスケットボール、そして男子車いすバスケのダブル銀メダル獲得おめでとうございます。
三屋裕子さん(以下、三屋) ありがとうございます。選手、スタッフ、そして応援して下さったファンの方すべてに感謝したいですね。でも、フランスと戦った女子バスケの準決勝は心臓がバクバクし通しでした。自分の現役時代の苦い思い出がフラッシュバックしちゃって……。
三屋 私がバレーボール選手として出場した1984年のロス五輪では、金メダルが確実と目されていたんです。私たち選手も当然そう思っていました。当時の世界ナンバー1は、今中国バレーボール女子の監督をしている郎平さんが絶対エースとして君臨していた中国。その中国に前年のアジア選手権では勝っていたんです。
五輪の決勝戦で当たるのは中国と踏み、予選Aグループの私たちはそのための戦術を立てていた。ところがBグループの中国は米国にあえて負けて、準決勝で私たちと当たる作戦を取ってきたんです。中国は多分、決勝になると日本が普段以上の力を発揮することを知っていたので、準決勝でぶつかる作戦に切り替えたんでしょうね。
私たちはその作戦に面食らい、気持ちを立て直すことができないままゲームセットで敗退。ぼうぜん自失になりそうな気持ちを何とか立て直し、3位決定戦でペルーに勝って銅メダルを取りましたが、当時の故山田重雄監督からは「史上最低の銅メダル」と言われました。
当然です。1964年の東洋の魔女から始まった女子バレー五輪の歴史は金が2個、銀も2個なので銅は屈辱でしかなかった。だから表彰台でセレモニーが終わった途端、銅メダルをしまいました。
そんな記憶が、女子バスケの準決勝戦を見ているうちによみがえって……。いまだに、中国の郎平監督の顔がテレビなどで映し出されると顔を背けたくなってしまいますから(笑)。
―― 三屋さんは幻のモスクワ五輪(1980年)にも出場予定だったんですよね。