教師になるか、バレーを続けるか

三屋 筑波大学3年生の時に日本代表に選んでいただいたのですが、五輪目前の2月のキューバ遠征時に大けがをしてしまったんです。現地の医者からは「バイバイ、バレーボール」と言われ、二度と選手には戻れないと宣告されたのですが、じん帯は切れたまま必死にリハビリし、何とかモスクワ五輪の最終メンバーに滑り込みました。

 ところが6月、日本は不参加を決定。虚脱感やむなしさで頭が真っ白になりました。けがの手術をせず必死にリハビリを頑張ってきたのは何だったのか……って。この時点で私の人生にもう代表選手の道はないと思いました。卒論を書き終え、冬に実家のある福井県に帰省すると、辺り一面銀世界。窓から真っ白な世界を眺め、教師になるかバレーを続けるか自分に問いかけ続けました。

 実家の家業は製麺業。家業は姉に継がせるので、私は小さい時から教員になって独り立ちするように両親からいつも言われていたんです。両親は私がバレーをするのも反対で、日本代表に選ばれた時も、母は「それは断れるものなの?」と聞いてきましたから。

「両親には『おまえはただのうどん屋の娘だ』とよく言われていました。五輪より結婚のほうが大事、という考え方でしたね(笑)」
「両親には『おまえはただのうどん屋の娘だ』とよく言われていました。五輪より結婚のほうが大事、という考え方でしたね(笑)」