オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に迫ります。今回はシドニー五輪で金メダルを獲得した高橋尚子さんの(下)。引退を決意したきっかけ、東京オリンピック・パラリンピックへの思い、10年後の自分について語ってくれました。

(上)「シドニーで金」の裏にあった非常識への挑戦
(下)東京五輪への思い、今の師匠は現役時代の自分 ←今回はココ

「プロアスリート・高橋」ではなくなったから…

編集部(以下、略) 2008年、36歳で引退をしましたが決意したきっかけは何だったんですか。

高橋尚子さん(以下、高橋) 自分の考える練習がこなせなくなったというのが最大の理由です。国際大会で勝つためには、大会の日程から逆算し、半年前にはこんな練習メニューをこなし、1カ月前にはこんなタイムを出すというように一日一日、細かいスケジュールを積み上げていくのですが、練習メニューが完璧に消化できなくなってしまったんです。

 05年に小出(義雄)監督の元を離れて「チームQ」を発足させて以来、私はスタッフに厳しい要求をし続けてきました。例えばコーチに、1km=4分でペースメーカーをお願いしたとすると、4分05秒になってしまったら許せません。というのは、40kmで計算して3分以上も違ってしまうと、試合では何十位も順位が変わってしまいます。また、その日の練習量を元に翌日の練習を決めるので、全てのバランスが崩れてくるんです。

 その一方、1kmで5秒の違いも許せなかった私が、どんなに奮い立たせても自分に課したメニューをこなせなくなってしまったんです。もちろん、もっとメニューをゆるくして行う方法もあったんですけど、それは「プロアスリート・高橋尚子」ではないと考えました。勝つためのメニューがこなせなくなった以上、引退すべきだと決断しました。

高橋尚子(たかはし・なおこ)
高橋尚子(たかはし・なおこ)
1972年、岐阜県生まれ。大阪学院大学を卒業後、実業団へ。97年大阪国際女子マラソンでデビュー。00年シドニー五輪で日本人女子マラソン初となる金メダルを獲得。翌年のベルリンマラソンで、当時の世界最高記録を更新。08年引退を表明。現在はスポーツキャスターとしても活躍。日本オリンピック委員会(JOC)、陸上競技連盟の理事なども務める

―― セカンドキャリアは考えていましたか。

高橋 全く(笑)。海外合宿は1年のうち約半年、携帯電話は持たない、パソコンなし、テレビなし、コンビニも行かない生活で、走って、食べて、寝るという3つの行動しかしたことがなかったですから。何がしたいという希望はまるでなく、引退後すぐはいただいた仕事を無我夢中でこなしてきたという感じですね。