オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。
(上)「シドニーで金」の裏にあった非常識への挑戦 ←今回はココ
(下)東京五輪への思い、師匠は「現役時代の自分」
世界一厳しい練習を重ね、シドニーで金
編集部(以下、略) 2000年のシドニー五輪のマラソンで、トップでゴールした高橋さんの第一声が「すごく楽しい42kmでした」。そして満面の笑み。あの瞬間、マラソンは苦しくてつらいものと考えていた多くの人の先入観を変え、その後、日本にマラソン愛好者が急増しました。
高橋尚子さん(以下、高橋) とっさに出た言葉だったんです。スタート位置に立つまで、練習は1ミリも妥協することなく完璧にこなせていたし、世界一厳しい練習をしてきた自負があったので、早く走りたくてウズウズしていました。沿道の応援もすごかったし、レース運びは想定外でしたが、主導権を握って自分の走りができたので、もう達成感でいっぱいでしたね。
ゴールしたら真っ先に、ずっと指導して下さった小出(義雄)監督(2019年没)と喜びを分かち合いたかったのに、どこを探してもいない。ビクトリーランを終える頃、赤い顔をした小出監督が「Qちゃん、頑張ったな」とニコニコ現れました。後で聞くと、20km地点で優勝を確信して、30km地点にいるというレース前の約束を飛ばして、ビールを飲みながらスタジアムに帰ってきたとか(笑)。
小出監督も多分、シドニー五輪前に金メダルを取るだけの練習を私に課してきたという自信があったんでしょうね。小出監督は愉快な人ですが、作る練習メニューはメチャクチャ厳しいんです。シドニー五輪前は標高3500m近い米国コロラド州ウインターパークで合計1カ月半ほど合宿をこなしました。
―― ほぼ富士山の山頂の標高。空気が薄く、動くだけでも息切れするほどの過酷な場所で毎日走り込んでいたんですよね。
高橋 心臓がバクバクするだけでなく、握り潰されそうになるぐらい苦しいんです。車で並走する監督に「心臓が苦しい」と言っても、窓を開けて「あ、そう」と言うだけで車を止めてくれない(笑)。私も、監督に「ウインターバークで練習したい」と提案した手前、引くに引けませんでした。
実は、シドニー五輪前年の世界陸上に出場予定でしたが、出られなかったんです。