パラリンピックを目指す意味を失いかけていた

杉浦 17年に南アフリカで開催されたパラサイクリング・ロード選手権で初優勝し、18年のイタリア大会も制すると、国際自転車競技連合から、日本人で初めて「パラサイクリング賞」を受賞しました。その時に周りから「すごい快挙を成し遂げたんだから、成田には報道陣が大挙して押しかけているかも」と言われ、機内でインタビューのイメージトレーニングし、メイクもばっちりして出口に向かいました。

 ところが出口はシーン……。取材は全くありませんでした(笑)。周りからは「やっぱり若くてかわいくないと注目されないよ」とか「大きな障害がないと頑張っている様子が伝わらないから興味は持たれない」「速いだけじゃダメなんだよ」と言われ、パラリンピックを目指す意味を失いかけてしまったんです。

 しかも、コロナ禍で東京パラリンピックの開催が1年延びたことで、49歳で出場するはずだったのが50歳になってしまう。私にとって40代で出場するのと50代とでは大きな意識の壁がありました。

「高次脳機能障害と三半規管損傷の障害は一生付き合っていかなければなりません」
「高次脳機能障害と三半規管損傷の障害は一生付き合っていかなければなりません」