オリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。私たちの記憶に残るオリンピアンたちの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

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長野五輪後、学生時代はバイトにも励んだ

―― 1998年の長野五輪から2006年のトリノ五輪まで、フィギュアスケート界のトップランナーでしたが「引退」を意識したのはいつごろからですか。

荒川静香(以下、敬称略) 20歳になったころには引退後のことを考えていましたね。そのころに開催されたソルトレーク五輪には、出場していません。競技者としては本来、最も脂の乗った時期のはずでしたが、私にとっては勉強や卒業後のことのほうが重要課題。そもそも自己推薦で早稲田大学教育学部に入学したのも就職のことを考えたからでした。高校1年で出場した長野五輪後は、競技者としては余生と考えていたこともあって。大学時代はバイトもしていましたよ。

 今はフィギュアスケーターに多くのスポンサーが付くなど、選手が競技を続ける経済的負担はそれほど多くはなくなりましたが、私の時代はまだコーチ代、練習のリンク代、海外遠征費などは個人負担でした。サラリーマン家庭の私は、母がいくつもパートを掛け持ちして費用を捻出してくれていたんです。大学から一人暮らしを始めたので親の負担はさらに増える。だからせめて、私の遊興費ぐらいは自分で稼ごうとコンビニやサンドイッチ屋さんでバイトを始めました。

荒川静香(あらかわ・しずか)
荒川静香(あらかわ・しずか)
1981年生まれ。5歳からフィギュアスケートを始め、東北高校1年で1998年長野五輪に出場し13位に。早稲田大学卒業と同時期に2004年世界選手権で優勝。2006年トリノ五輪で金メダルを獲得。現在は育児と並行してプロスケーターとして活躍する一方、日本スケート連盟副会長を務めるほか、解説者としてもフィギュアスケートの魅力を伝えている

荒川 この経験はとても大きかったです。母がどんな思いでスケート代を捻出してくれているか分かったし、日本代表選手としての練習、大学の勉強、そしてバイトをこなすのはすごく大変だったけど、効率のいい時間の使い方が身に付いたような気がします。当初は、遊ぶお金が欲しくて始めたバイトでしたが、1時間でも空き時間があれば、シフトを入れました。その空いた1時間を遊んでしまえばお金が出ていきますが、バイトの時間に充てればお金が入ってくる。だったら入ってくるほうがいいやって(笑)。

 ただ、時給数百円のバイトをしていたので、10円、20円の差にも敏感になり、友達からはケチと言われるようになりましたけど(笑)。

―― 大学卒業後はどんな職業に就こうと思っていたのですか。