トリノ五輪直前に下した大英断

―― それにしても、トリノ五輪の本番2カ月前にコーチを変え、1カ月前にSPもフリーも曲を変えるとは。そんな荒業を実行する選手は荒川さんの他にまずいないでしょう(笑)。

荒川 メダルを狙っていたら危険だと思いますが、私はできることはすべてやり切って五輪を迎えることを第一に考えていましたから、迷いはありませんでした。それまでのコーチのタチアナ・タラソワさんには演技力を磨いてもらいましたが、さらに技術力を高めたかったのでニコライ・モロゾフさんにも指導を仰ぎたかった。私は二人にコーチをお願いしたかったのですが、タラソワさんに一緒にはできないと言われたので、私の足りない部分の指導を仰げるモロゾフさんを選びました。

 直前に曲を変えたのは、現地のリンクで練習してみると音の響きに違和感があったから。リンクは、標高や湿度、温度、材質などによって音の響きが微妙に変わる。トリノでも、曲の旋律と体の反応に微妙なずれを感じていました。SPはラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』を使っていたのですが、ジャンプのフリップのときに、細かいリズムを体が拾ってしまいタイミングが僅かにずれてしまう。技と音楽、そして自分の感覚が一体になれないもどかしさがあったんです。急きょ、それまでフリーで使っていたショパンの『幻想即興曲』をアレンジしてSPにし、フリーにはプッチーニの『トゥーランドット』を使うことにしました。

荒川さんの代名詞であるイナバウアーは、実は加点されない演技だった。「点数だけを意識した演技をしたくなかったから」と振り返る
荒川さんの代名詞であるイナバウアーは、実は加点されない演技だった。「点数だけを意識した演技をしたくなかったから」と振り返る

荒川 今考えれば、自分でもすごい決断をしたなって(笑)。でも、あの時は時間がなかったから、迷っている暇なんてなかったんです。

―― 初めての五輪は、高校1年生で出場した1998年の長野五輪。あの時はどんな心境だったんですか。