15歳で出会った振付師 新たな人生の幕が上がった

村主 体が硬かったので、ジャンプの見直しなど大幅な技術改革に取り組んだところ、演技が荒れてしまったばかりか、所属先の変更なども余儀なくされ、精神的にも肉体的にもつらい時間を過ごしていたんです。ただ、そんな試練の中で鍛えられた集中力やモチベーションなどが、あの全日本選手権で凝縮された形で発揮できました。

―― 多くの人を魅了した芸術性の高い演技力はいつ、どのようにして獲得したんですか。

村主 15歳でカナダの振付師、ローリー・ニコルさんに出会ったことが、私の今に続く人生の始まりとも言ってもいいくらい影響を受けていますね。

 子どもの頃は米国アンカレジに住んでいました。冬の遊びといえば氷の上。3歳からスケート靴を履きましたけど、本格的に始めたのは帰国した6歳の時。その頃はまだお稽古ごとの一環でしかなく、競技者になろうとは考えていませんでした。でも中学生の時に出場した全日本ジュニア選手権で転倒して……。悔しいというよりすごく恥ずかしかった。それで、スケートにきちんと向かい合おうと。でも両親には「成績が落ちたらスケートはやめさせる」と言われていたので、勉強も頑張ったかな(笑)。

 朝5時に起き、自宅から練習場がある神奈川県の新横浜まで母の運転で移動し、車中で朝食を取り、着替えをして練習。その後、大船にある学校まで送ってもらい、授業が終わった時点でまた母が運転する車で移動。車中で着替えて、宿題をし、練習。リンクで夕食を食べ、家に帰ったら勉強をし、寝る。そんな生活を中学、高校と続けていましたね。

 ただこの頃は、スケートがうまくなりたい一心で、芸術性なんて考えたこともありませんでした。でも、15歳の頃、私と同年代のミシェル・クワンが急に華麗な演技を身に付け頭角を現した。何が彼女を変えたのか調べると、ニコルさんが振り付けを担当していることが分かったんです。インターネットもない時代だったから、彼女の連絡先をいろんな人に聞いて調べ、国際電話で「教えていただきたい」と懇願しました。

2014年に引退した後も、フィギュアスケートとのかかわりは密接。現在は米国で子どもたちを指導している
2014年に引退した後も、フィギュアスケートとのかかわりは密接。現在は米国で子どもたちを指導している