オリンピック、パラリンピックというひのき舞台で輝いたスポーツ界のヒロインたちの「その後」は、意外に知られていません。競技者人生がカセットテープのA面だとすれば、引退後の人生はB面。今回は、パラリンピアンとして10個のメダルを獲得した大日方邦子さんの栄光と挫折に、ジャーナリストの吉井妙子さんが迫ります。

(上)パラリンピックでメダル10個「生かされた意味」を問う
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大日方邦子(おびなた・くにこ)
大日方邦子(おびなた・くにこ)
1972年、東京都生まれ。3歳のときに交通事故により負傷し、右足を膝上から失う。高校2年のときにスキーを始める。1992年、中央大学法学部入学。1996年に卒業し、日本放送協会(NHK)入局。1994年、冬季パラリンピック・リレハンメル大会に出場。以降、5大会連続で冬季パラリンピックに出場し、計10個のメダルを獲得。2010年に引退。現在は、電通パブリックリレーションズに勤務

「義足だからできない」と諦めることはなかった

―― 前回、高校2年生のときに出合ったチェアスキーにどっぷりハマってしまった、とおっしゃっていました。その後、アルペン・チェアスキーでパラリンピック5大会に出場し、金2個を含む10個のメダル獲得数は、いまだに日本人最高記録です。競技としては難しいアルペンスキーに取り組むなんて、そもそもどんな子どもだったんですか。

大日方邦子さん(以下、敬称略) 3歳のときに交通事故に遭って右足を膝上から失いましたが、子どもの頃からおてんば。義足をつけながら木登り、かけっこ、水泳、跳び箱、鉄棒とスポーツは何でも得意でした。両親からは「あなたには無理だからやめなさい」と一度も言われたことがありません。

 でも、義足だとできないこともある。例えば運動会の入場行進。義足ユーザーは右足と左足を同じ歩幅、リズムで歩くことが難しい。すると母は必ず「じゃあ、練習しましょう」と庭で行進の練習をすることを提案してくれました。このように両親は義足だからできないと諦めるのではなく、弟たちと一緒にやれる方法を探し工夫すればできるようになるということを教えてくれましたね。

2006年トリノパラリンピックの大回転で金メダルを獲得したときの大日方さん 写真/堀切 功
2006年トリノパラリンピックの大回転で金メダルを獲得したときの大日方さん 写真/堀切 功

障害は悪いことでも恥ずかしいことでもない

大日方 リレーや水泳のクラス代表として活躍した華やかな小学校時代とは打って変わって、中学はいじめの標的にされました。掃除中に水を掛けられたり物を隠されたり、あるいは集団無視をされたりとか……。このとき、なぜいじめられるのか真剣に考えました。私は、義足を外して水泳に参加もしましたし、授業中もハキハキ手を挙げ、成績も良かった。障害者は弱者であるべきなのに、私は健常者以上に行動的だった。そこがみんなの反感を買っていると思い至りました。実際「障害者なんだからおとなしくしてればいいのに、生意気なんだよ」と言われたこともあります。

 みんなの期待通りにおとなしくすればいいのかと考えたこともありますけど、でもそれは私ではない。障害は悪いことでも恥ずかしいことでもなく、私の個性。母に相談すると「嫌だったら学校に行かなくてもいい。でも勉強はあなたのものよ」と言われ、学校では今まで通り堂々としていようと決めました。

 ただこの間、自分と深く向き合えたことで考え続ける力、あるいは壁にぶつかっても破る力を養えたかなと思いますね。