1クラスが45人、それが各学年9クラスあった。大勢で雪を踏む「きゅっきゅっ」という固い音を聞いているうち、胸の中になんとも言えないむなしさが広がっていく。
「これは何?」
と私は隣の友人に言った。
「何って雪踏み」
爪先で雪を崩しながら友人は答える。広げた平地は体育の授業で雪中サッカーをしたり、運動部の練習に使ったりするのだが、しかし、そんなものは一度か二度雪が降ったら元の雪野原に戻ってしまうのだ。
「どうせまたすぐに積もるのに?」
私が言うと友人も答える。
「それどころか春には全部溶けるのに?」
「黙っていてもちゃんとした土のグラウンドが現れるのに?」
「そしてまた雪が降るのに?」
「それがまた溶けるのに?」
「それを繰り返して皆死ぬのに?」
「どんなに生きても絶対死ぬのに?」
最後は急に哲学的になってしまったが、結局のところ「いずれ無になってしまうもののために我々は何をやっているのか」ということである。建設的なのか無駄なのか分からないことをするより、暖かい教室でぬくぬくと過ごす方が肉体的にも精神的にもよほどいいのではないかと結論づけたのだ。
結局、寒いだろう?
あれからずいぶんたつが、当時と気持ちはいささかも変わっていない。今もあちこちに「雪と親しもう」「冬を楽しもう」みたいな文言があふれ、それで何をするかというとスキーに行ったり雪像を作ったり雪合戦をしたり子どもをそりに乗せて走ったりアイスキャンドルを並べたりである。
「結局、寒いだろう?」
と参加者の目を見て静かに問いかけたくなる。結局、寒くて冷たくて吹雪になったら何も見えなくて吹き付ける風と雪で顔が痛いだろう? まつげも鼻毛も凍るだろう? 旦那の趣味に付き合ってスキー場に来たはいいけど離婚したくなっただろう? そのくせ、そいつら春には全部溶けるんだぜ?