音楽評論家、作詞家として50年以上のキャリアを持つ湯川れい子さん。国内のみならず世界中のスターやアーティストと親交を深めてきました。そんな湯川さんによる自筆のコラムです。 世界中のアーティストとの交流、昨今のエンターテインメントについて考えていること、さまざまな土地を旅して感じていることなどをつづってもらいます。

 8月は大型の台風10号が来たり、その合間にはガーッと猛暑日が続いたりして、私はなんだか短かったわりには例年よりも大変な夏だったような感じがしたんですけれど、あなたはいかがでしたか? もしかしたらそれも、私の83歳という年齢のせいかもしれませんけれど。

 私にとっての8月は、やっぱり毎年、特別な月です。広島と長崎に、今のところ人類最初にして最後の(絶対に最後にしたい!)原子爆弾が落ちて、74年前に終戦を迎えた月が8月で、私は18歳年上だった長兄を戦争中にフィリピンの戦場で亡くしています。

 本当にやり切れない8月でしたけれど、平和になって、女性も社会に出て働いたり、戦前の日本では考えられなかったような自由を手に入れたりすることができるようになりました。私が音楽、それもジャズやロックの評論を手がけ、作詞家としても活動を始めて、来年で60年を迎えます。

エルヴィス42回目の命日を神戸で過ごして

 その60年間の思い出の中で、もっともインパクトが大きかった8月は、1973年8月4日。私がラスベガスで結婚式を挙げて、エルヴィス・プレスリーに「結婚の誓い」にサインをしてもらった日です。それなのに、そんな夢がかなった日からわずか4年後の1977年には、そのエルヴィスが自身の結婚生活の破綻から、身も心もボロボロに傷ついて、42歳であっけなく他界してしまいました。

1973年8月、エルヴィス・プレスリーに「結婚の誓い」にサインをしてもらいました
1973年8月、エルヴィス・プレスリーに「結婚の誓い」にサインをしてもらいました

 今年の8月16日が、ちょうど彼が生きた年月と同じ42回目の命日でした。その前夜の8月15日の夜には、神戸港に面した大きな商業施設、ハーバーランドに置いてあるエルヴィス・プレスリーの2メートルを超す立派な銅像の前で、命日の記念行事である「ペンライト・ヴィジル」が行われる予定になっていました。

 このエルヴィス・プレスリーの銅像は、エルヴィスが亡くなった後、その偉大な功績と、日本の音楽に及ぼした影響の大きさなどに感謝するという意味から、ファンクラブが広く寄金を呼びかけて、当時はまだ国会議員だった小泉純一郎さんや、歌手で作曲家の平尾昌晃さん、和田アキ子さん、西城秀樹さん、ジョン・ボンジョヴィさん、私などが寄付に参加し作られました。まずエルヴィスの死後10年目の1987年に、原宿に当時あったロックンロール・ミュージアムに設置。その後、竹下通りのロック・アイコン(スター)の商品を売るお店「ラブ・ミー・テンダー」の入り口に10年ほど置かれて、世界から訪れる観光客を喜ばせておりました。

 それが原宿の再開発とともに店舗が閉店することになり、エルヴィス像も行き場所を失ってしばらくは倉庫の中へ。行き先を探していたときに、兵庫県知事の井戸敏三さんが「日本にジャズなどアメリカ音楽が最初に入って来たのは、横浜や横須賀よりも神戸が先だったのだから」と、ハーバーランドに話を持ちかけて下さいました。そして2009年8月7日に小泉純一郎さんをお迎えして、改めて神戸で銅像の除幕式を行ったのでした。

ハーバーランドにあるエルヴィス・プレスリーの2メートルを越す立派な銅像の前で、昼と夜に撮影
ハーバーランドにあるエルヴィス・プレスリーの2メートルを越す立派な銅像の前で、昼と夜に撮影
ハーバーランドにあるエルヴィス・プレスリーの2メートルを越す立派な銅像の前で、昼と夜に撮影