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私のキャリアが始まった日

伊達公子 選手時代、試合後の記者会見は苦痛だった

(1)全国大会に行けなかったこともある「そこそこ」の高校生が、プロになり「世界ランク4位」に駆け上がるまで


2021年6月に日本テニス協会の新理事に選出された伊達公子さん。彼女のキャリアをたどると、テニスが大好きな蜜月時代、一転してテニスから一切離れた疎遠な時代、テニスへの情熱から世界へ再挑戦……と人生のフェーズごとに関わり方は変わりながらも、常に伴奏のように寄り添う「テニス」への愛が見えてきます。そんな伊達さんのキャリアの変遷から、自分らしい人生を築くヒントを探ります。

(1)選手時代、試合後の記者会見は苦痛だった ←今回はココ
(2)30代後半での現役復帰は「いいことだらけ」
(3)世界に通用するテニス選手を育てるための課題

決意からわずか1年で、プロの道へ

 伊達さんがプロテニスプレーヤーになったのは、高校卒業時。プロになることを意識し始めたのは意外に遅く、高校2年生の秋でした。

 幼少時からテニスが大好きで、高校は兵庫県のテニス名門校に入学。寮生活でテニス漬けの毎日を過ごしてはいたものの、「常に負け知らずな選手だったわけではない」と話します。

 「ジュニア時代の私は京都の中で2〜3位、全国だとベスト8か16くらい。常にそこそこの選手で、高校1年生では全国大会に行けなかったこともあるくらいです。高校2年生のときにインターハイのベスト4に入り、プロも含めての日本一を決める全日本選手権に出場できるチャンスをいただきました。その全日本選手権でベスト4に入ったことで、降って湧いたように、突然意識が変化したんです」

高校生時代の伊達さん
高校生時代の伊達さん

 試合を見ることはあっても、プロとの試合は生まれて初めて。そこで勝ち進んだ高揚感は大きく、高校3年生に上がる頃にはプロになることを決断します。しかし、自分の力がどこまで通用するのか、先が見えない勝負の世界へ入る不安は感じなかったのでしょうか。

「その頃は、急にいろんなことが変わり始めたので楽しくて。不安はもちろんゼロではなかったですが、それよりも自分に対する期待の方が大きかったんです」

 「自分のテニスが変わってきている、強くなっている」。そんな実感を得られるようになったきっかけは、学外のコーチに師事することになったこと。高校のテニス部監督だった光国彰氏が病気になったことで、小浦猛志コーチの下で練習することになりました。小浦コーチは伊達さんの才能を見極め、伊達さんをF1の車に例えたといいます。そんなコーチの言葉が、プロを目指す決断を後押ししました。

 「たとえ車体がしっかりしていても、エンジンやタイヤが伴っていないと速くは走れない、と日々言われていました。そのギャップを埋めるための課題を与えられて、ひとつクリアしたらまたさらに難しい課題を与えてもらえて、自分のテニスが変わるのが楽しかった。自分がF1の器を持っていると思ったことはなかったんですけど、コーチはずっとそういう風に言ってくれていましたね」

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