各界で活躍する方々が、自身にとって忘れられないクラシック音楽の一曲と共に人生を語ります。今回登場するのは、ANAホールディングス取締役副会長の平子裕志さん。2022年3月末までANAの社長を務め、航空業界が未曽有の打撃を受けた新型コロナウイルス禍では、経営トップとして対策の陣頭指揮を執りました。そんな平子さんには、大好きなクラシック音楽の中でも、初めて聴いたときから直感的に引き付けられた特別な曲があると言います。

(上)コロナ禍に直面したANA社長時代 あるオペラが支えに ←今回はココ
(下)ANAは挑戦の時 リーダーにはリセットする勇気が必要

大学浪人時代、「隣人」に感化されクラシックに熱中

 クラシック音楽は父が家でよくレコードをかけていたので、小学生の頃から耳になじんでいました。本格的に聴くようになった最大のきっかけは、大学受験に失敗し、東京に出てきて浪人生活を送っていたときです。下宿先で隣室になった人が大のクラシック好きで、いろいろ教わっているうちにすっかり感化されました。

 浪人生にはコンサートに行くお金の余裕はありませんから、毎週土曜日にNHKFMで放送していた3時間ほどのクラシック音楽番組を夢中で聴いていました。

 大学に入ると、NHK交響楽団の定期会員になって毎月の定期演奏会へ通いました。ホールの一番後ろの、一番安い学生席です。クラシックの中でもオーケストラの演奏が大好きでした。

 大学時代に一つ忘れられない出来事があります。3年生のときに、ヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と来日。なけなしのお金をはたいてベートーヴェンの「第九」の演奏会を聴きに行きました。

 演奏はもちろん素晴らしかったのですが、それ以上に終演後のカラヤンの様子に驚きました。カラヤンって、どちらかというと冷徹で近寄り難いイメージがありましたが、終演後も舞台から去らず、ずっと観客に手を振っていたんです。指揮者というものに対するイメージががらっと変わって、クラシックへの思いもより強くなりました。

直感的に引き付けられた「マイスタージンガー」

 いろいろな曲を聴いているうちに出合ったのが、ワーグナーの「楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』より第1幕への前奏曲」です。なんてすごい音楽だろうと、衝撃が走りました。

 名前の通り、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という楽劇(オペラ)の冒頭で演奏される10分ほどの曲なのですが、みなぎる気力が心の底からふつふつと湧いてくるような音楽のエネルギーに、初めて聴いたときから直感的に引き付けられました。あまりにも好きになってしまったので、自分の結婚式の披露宴でも、退場のときに流したんですよ。ちなみに入場は、エルガーの威風堂々。どちらも私が自分の好みで決めてしまったので、当時クラシックに興味のなかった妻は「もっとおしゃれな曲を」と不満げでした。そのときのことはいまだに言われます(笑)。

 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は全3幕、幕あいの休憩時間も入れると上演時間は6時間にも及ぶ大作オペラなので、日本で上演される機会はなかなかありません。いつかはオペラ全編を見たいと思い続けて、ようやく実現したのは2014年。ANAの米国拠点の総責任者としてニューヨークへ赴任していたときに、メトロポリタン歌劇場の公演を見ることができました。そのときに、なぜ自分が前奏曲にこれほど魅了されたのかが、改めてよく分かりました。