各界で活躍する方々が、自身にとって忘れられないクラシック音楽の一曲と共に人生を語ります。今回登場するのは、執筆やプロデュース業などマルチに活躍する湯山玲子さん。父親が作曲家という家庭でクラシック音楽に囲まれて育ち、現在はクラシック音楽をテーマにした音楽体験イベント「爆クラ」も手掛けていますが、「クラシックを全然愛していない」と断言。その理由とは?

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(下)ミドル世代はコツコツより「ちやほや」が大事

「俺はこれだけ映画を見ている」自慢をする人たちが苦手

 私の父は、童謡「あめふりくまのこ」やピアノ曲集「お菓子の世界」などを手掛けた作曲家の湯山昭です。言ってみればクラシック音楽が家業の家に生まれたわけですが、私、クラシックを全然愛していないんです。というか、今仕事で守備範囲にしている映画やアート、演劇、ファッション、食など、どのジャンルにも「愛」がない。好奇心や探求欲、好き嫌いの感情はずばぬけて強いのですが、それらのジャンルを「愛する」ということがよく分からないんです。

 愛してしまうと、往々にして「いい観客」にならなくなっちゃうんですよ。

 私はもともと「ぴあ」で働いていたのですが、周りには「俺は年間100本映画を見ている」「私は演劇を愛している」といったことを自慢げに語る人たちがたくさんいました。それらが好きな気持ちは分かります。でも彼らは「業界ムラの住人」になってしまって、事情が分かるだけに、主流の評価や有力者の評価に忠実になってしまう。クラシック音楽の場合、それでなくとも欧米が本場というヒエラルキーが存在しますから、「ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、フルトヴェングラーはすべてが最高」みたいに、権威的なものを無条件で信奉する人になっちゃうんです。

 だから私は、「○○を愛する人」をあまり好きになれないんです。もちろん、本当に「いい観客」として追いかけている人もいますよ。観客と言いましたが、日本人の鑑賞態度は、「ファン」は多いけれど「観客」が少ない気がします。「推し」といいますか、観客として自分自身と表現の化学反応を楽しむというよりも、アーティスト個人を応援することに熱中するわけです。

かっこいいのはクラシックよりもロックやポップス

 私は小学校の頃から「流行」が好きでした。時代と一緒になったものが、一番パワーがあってキラキラしていると思うから。

 音楽も、「音楽家の家あるある」でピアノを習ったりはしていましたが、バッハのインベンションぐらいまででやめてしまいました。それよりも、小学校高学年から好きで聴いていたのは洋楽です。ロックやポップスの黄金期、1960年代後期~70年代前期ですかね。お稽古アイテムのクラシックよりも、圧倒的にかっこよかった。

 とはいえ、家の中にはいつも父の音楽が鳴っていたし、興味の有無にかかわらず、クラシックはコンサート体験も含めて耳に入る率は高く、ずっと聴いていました。

 父の湯山昭は天才です。そして天才が家の中に一人いると、家の中がとんでもないことになります。