「明日は、この名曲のようにいい将棋を指そう」

 モーツァルトの未完の遺作であるレクイエムについてのエピソードは以前から知っていました。ある日、モーツァルトの家を見知らぬ男が訪ねてきて、高額の報酬と引き換えに死者を追悼するレクイエムの作曲を依頼します。モーツァルトは「これはもしかすると、自分のための追悼曲になるのではないか」と思ったそうなんですね。そして渾身(こんしん)の力を込めて作曲に取りかかりますが、その途中に35歳で急死。レクイエムはモーツァルトの助手が完成させたということです。

 レクイエムは死者を追悼する宗教曲ですが、しんみりしているところもあれば、ダイナミックな場面もあって、聴かせどころの多い名曲です。私は聴いているうちに、自然と「明日の対局では、この名曲のようにいい将棋を指そう」と思えてきました。何が何でも勝たなくてはという心境ではなく、ただ、いい将棋を指したい、と。

 その年の名人戦は、7番勝負のはずが勝敗がつかず、何と10局にわたりました。8局までなら珍しいことではありませんが、10局というのは空前絶後。それでも気力が途切れることなく戦い抜き、勝つことができました。私が名人になれた大きな要因の一つは、レクイエムを聴くことでテンションが上がったことにあると思います。

 これは余談ですが、日本将棋連盟のサッカーチームとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーの有志で、サッカーの親善試合をしたことがありました。そのときに、試合後の打ち上げで将棋連盟の一人が「加藤一二三さんという棋士は、モーツァルトのレクイエムを聴きながら名人になった」と、ウィーン・フィルの名人たちに語ったそうなんです。そうしたらウィーン・フィルの方々は「我々はモーツァルトのレクイエムをそのように(勝負に臨む曲として)は聴きません。加藤さんは天才だ」と。この話を聞いたときはうれしかったですね。