例えていうなら、1回目ではまだ人生も定まらぬ不器用な若者が悩み、放浪の旅に出ながら、最後には歓喜に至るという感じだったのが、3回目はもう大人の観点からドラマチックに旅が構築されている感じ。「2回目くらいがちょうどよかったかなあ」とも思いました。

 3回目までの間に、渡邉さんと都響はマーラーの他の交響曲の演奏経験を積んでいたんですね。マーラーという作曲家の語り口への理解が深まり、オケの技量もどんどん上がっていくのだけれど、「巨人」はそもそもマーラーの後期の交響曲の完成度に比べると、曲自体に緩さがある。だから、隙のない完璧な演奏ができればいいってものでもないんじゃないかなあ……。20歳そこそこで、特に音楽に詳しいわけでもないのに、生意気な感想ですよね。

 でも、同一の指揮者とオーケストラによる同一曲を3回聴いてそんなふうに感じたことは、とても大切な体験だったんじゃないかなと思うのです。いくらレコードを聴いても、多分そういう発見はできなかった。これも「人」が音楽をやっているからこその面白さです。

「オーケストラとして一番思い入れがあるのはやっぱり都響です。2021年はコロナの影響で定期会員募集を休止したので、お客さんが本当に減ってしまって。でも22年は再開して、座席表の予約を見たら結構埋まっていたのでよかったです」
「オーケストラとして一番思い入れがあるのはやっぱり都響です。2021年はコロナの影響で定期会員募集を休止したので、お客さんが本当に減ってしまって。でも22年は再開して、座席表の予約を見たら結構埋まっていたのでよかったです」

ステージ上の人間ドラマにも興味 時には隙間風も…

 いろんなオーケストラの演奏会に足を運ぶうちに、音楽そのものだけではなく、「人間ドラマ」にもだんだん興味が湧いてきました。オーケストラと指揮者の間がうまくいっているかどうかは、ステージ上の様子を見ていると分かります。

 そもそも、「俺は弾けるんだぞ!」っていうプライドを持った100人からの奏者を相手にしている指揮者とは、どれだけ強いメンタルを保っているのか。だって、奏者にそっぽを向かれたら指揮棒を振っても一音も出ないわけですからね。かたやオーケストラのほうだって、指揮者を立てて気持ちよく振ってもらわないと、みんなが心を1つにしていい音楽をつくることができません。

 でも実際には、若手指揮者が空回りしながら必死に指揮をしているのに、メンバーはみんな涼しい顔して弾いている、なんていうことも。両者の間に隙間風が吹いていれば、それは出てくる音楽にも表れます。

 そんなふうに残念な人間模様が見える演奏もある一方で、オーケストラと指揮者が共感し敬意を持ち合い、魂と魂でつながり合うような演奏の場に居合わせると、ものすごい感動と幸福感を覚えます。