ピアニストの演奏表現の可能性を広げるため、科学的な根拠に基づく体の使い方や練習方法の確立を目指す、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の研究員、古屋晋一さん。大阪大学で基礎工学を学びながらも、ピアノ演奏でさらなる高みを目指して練習に打ち込んだことで、音楽と工学を掛け合わせた未知の研究分野に取り組むことを決めたといいます。研究に向かう原動力と、演奏家を科学的な側面から支えることへの思いを聞きました。

(上)ピアノか理系か 進路に迷った先に開けた「第3の道」
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研究だけに没頭していると「だから何?」に陥る

 スポーツにはスポーツ科学があるのに、音楽家の「体の使い方」を科学的に考える研究がなぜなかったのか。多分、やったとしても「そんなの役に立たないよね」と言われることが多かったのではないかと思うんです。僕はこれを「So What?(だから何?)研究」と呼んでいます。

 例えば、ピアノを弾いているときの体の動きを高速度カメラ10台で撮影したとします。これだけでは、「だから何?」という話ですよね。研究することありきで、単にデータを取って「こういう結果が出ました」と論文を書いたとしても、研究の裾野は広がっていかないでしょう。

 自分への戒めとしても思うのですが、研究をするときは「how」の部分ばかりではなく、前提として「what」を理解することがとても重要です。演奏家が「この曲のここの部分をこう表現したい」というのがwhatで、ではそれを実現するためにどう体をどう動かせばいいのか、がhowです。理論を追い求めることだけに夢中になっていたら、So What?研究に陥ってしまいます。

 音楽の世界では長い間howの部分、つまり身体教育は、指導者の経験論に基づいて行われてきました。先生が教える「弾き方」はもちろん正しいこともありますが、すべての人に対して正しいわけでもないですし、根拠も示されていない。時には体を痛めてしまうような間違ったことも含まれている。それは大きな問題でした。

 一方で、whatが明確に示されているのは、音楽のレッスンのすばらしいところです。例えばドミソという和音を弾いたときに、先生は「ミの音が強すぎるよ」とか「音が全然響いていないよ」といったことはすごく丁寧に指導します。だから生徒も、自分は何ができていないかは分かります。では、指をどう動かし、どの筋肉をどう使えばできるようになるのか。それを科学的なデータに基づいて明らかにできれば、新たな音楽表現ができるようになる可能性と、既にできていることもより体へ負担をかけず楽に表現できる可能性が広がります。

「音楽のレッスンで示される『良い音、良い響き』は、どう体を使えば出すことができるのか。それを科学的に明らかにできれば、音楽表現の可能性は広がります」
「音楽のレッスンで示される『良い音、良い響き』は、どう体を使えば出すことができるのか。それを科学的に明らかにできれば、音楽表現の可能性は広がります」