思いがけず喫茶店の店主となり、やがてコーヒー豆の自家焙煎に目覚めた丸山珈琲社長の丸山健太郎さん。試行錯誤を重ねること約7年、探求の対象はコーヒー豆の焼き方から、豆そのものを吟味することへと変化していきます。海外に広がるスペシャルティコーヒーの潮流を知ると、持ち前の行動力でいち早く参画。コーヒーの生産地に直接足を運んで見えてきたこと、そして今、コロナ禍という逆境にあって、経営者として大切にしていることは?

(上)丸山珈琲社長 異国での失恋 傷心をバッハが癒やした
(下)コロナで苦渋の決断 丸山珈琲らしさは形を変えても届く ←今回はココ

 焙煎(ばいせん)士という仕事に魅了され、本格的にコーヒー豆の焙煎に取り組むようになった僕が7~8年かけて自分なりにたどり着いたのは、「豆は当たり前に焼くしかない」というシンプルな答えでした。同時に、大切なのは材料だという当たり前のことにも気づきましたが、当時の日本では「ちょっとくらい原材料が悪くても、焙煎士の腕が良ければうまく焼ける」という考え方が主流でした。

 僕の関心は焙煎から豆の品質に移り、ちょうど普及し始めたインターネットで独自に情報収集を始めました。英語のページなどを色々調べているうちに、米国でスペシャルティコーヒーというものが話題になっていると知りました。そこにはまさに僕が知りたかった材料の話も出てきた。全国の喫茶店オーナーとメーリングリストを作って情報共有し、みんなで米国に行ったりもしました。

 当時日本のコーヒー大手各社は、スペシャルティコーヒーの動きに積極的ではありませんでした。というのも、ブルーマウンテンとかハワイコナとか、ブランド化した豆を扱う既存のビジネスモデルでうまくいっていたからです。

 そうした中で、スペシャルティコーヒーを日本に広めようとしている方に出会い、メンターになってもらうことができました。彼の話を僕が熱心に聞くので、「来月、米国で会議がありますけど参加しますか?」「今度、グアテマラでこんなことをしますが行きますか?」と、貴重な機会をどんどん紹介してくれるようになって。呼んでいただければどこへでも出掛けていきました。

「僕は英語が話せましたし、商売もあまり大きくなかったので、相談された話にはフットワーク軽く対応することができた。メンターの方には3年くらいの間、一度もノーと言いませんでした」
「僕は英語が話せましたし、商売もあまり大きくなかったので、相談された話にはフットワーク軽く対応することができた。メンターの方には3年くらいの間、一度もノーと言いませんでした」

国際社会で信頼を得るために重要なことを学んだ

 その頃の丸山珈琲はまだ軽井沢の1店舗だけで、年間の売り上げは1000万円もいっていなかったと思います。そんな僕が世界的な企業の人たちと一緒に国際会議に参加していたりする。あるとき、「僕なんかが……」と言ったら、メンターの方にこう言われました。

 「大手の会社はこの場に来ていない、でもあなたはちゃんと来ている。欧米ではその事実に信頼が置かれます。だから会社の規模など気にせず、日本のマーケットについて聞かれたらきちんと答えて、自分にできることは全力で対応しなさい」と。彼に国際社会での振る舞い方を教えてもらったおかげで、各国のコーヒー機関のトップの方など、今の仕事につながるすばらしい人たちと信頼関係を築くことができました。

 一方で日本国内では、それまで商社が扱っていたコーヒー豆を生産地から直接買い付けるという「ルール破り」を始めた僕への風当たりは強いものでした。