稼いだお金で、プライベートタイムにひとりで好きなことをする。当たり前のそんな行為を、なぜかためらってしまうことはないでしょうか? 誰も制限などしていないのに、やりたいことに自らブレーキをかけてしまうのはナンセンス。知的好奇心の赴くままエネルギッシュに活動するひとり時間使いの達人・湯山玲子さんが、さまざまな切り口で「自由を楽しむこと」の本質に迫ります。

 連載の3回目は、映画という題材を使って、そこに描かれた「素晴らしきひとり行動」というものを紹介したい。コロナ禍で一気にライフスタイルに導入された映像コンテンツ漬けの毎日。実生活よりもゾンビ(『ウォーキング・デッド』ね)や、ヴェクナ(『ストレンジャー・シングス 未知の世界』ね)と闘っている時間が長いような気がしさえしている今日このごろだが、そちらの没入方向ではなく、映像作品を、おひとりさま行動の参考資料にしてみる、という趣向であります。ネトフリやアマプラのような映像サブスクは、図書館のように旧名作にリーチできるわけで、この環境を利用しない手はない。

『バグダッド・カフェ』のジャスミンは究極のお手本

 まずは、『バグダッド・カフェ』。日本では1989年に公開されるやいなや、ロングランヒットになりミニシアターブームの先駆けとなった作品だが、改めて見返してみると、主人公のドイツ人女性のジャスミンの態度や行動は、「ひとり行動」の究極のお手本だったということが分かる。ラスベガスに観光旅行に行く途中に夫と大げんかをしてひとりレンタカーを降りた彼女は、砂漠の中でダイナー兼モーテル「バグダッド・カフェ」に駆け込んで宿を取り、長期滞在を決め込む。彼女は、片言の英語しかしゃべれず、土地の常連からしてみれば不審マックスのおひとりさまだ。

 見知らぬおひとりさまは、共同体からしてみたら「気味が悪いよそ者」にすぎない(ここのところは、実はひとり行動を実行する際に心の奥底に走らせておく非常線である)。しかし彼女は、その壁を乗り越えて、いつのまにか共同体に「いてほしい人間」になっていく。

 英語がしゃべれない彼女が人々の心をつかんでいくきっかけは、なんと「手品」。ウエートレスの手伝いをしながら、手の中から花を出すようなことをやって、カフェに集う荒くれ男たちを和ませていく。これ実は奥深く、本質的なコミュニケーションで、人間ならば民族および教養度、そして老若男女を問わず不思議が大好きなのだ。

 重要なのは彼女が手品を、「好意のプレゼント」として他人にギブし続けるところ。手品という技術でもって、共同体からリスペクトされるという点も重要。なぜなら、アウェーな場所に入っていくおひとりさまは、特に女性の場合、ヘコヘコと頭を下げ、下手に出て居場所を確保しようとするが、そうなると共同体のほうはおひとりさまをなめて、マウンティングしにかかることが多いからだ。そう、手品でなくても会話で「好意のプレゼント」ができるのが手練れのおひとりさまなのだ。

歌舞伎座にて、坂東玉三郎主演の、有吉佐和子作『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観劇。 黒船襲来時における日本人のメンタリティーは、今も変わっていない
歌舞伎座にて、坂東玉三郎主演の、有吉佐和子作『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を観劇。 黒船襲来時における日本人のメンタリティーは、今も変わっていない