特別な日に訪れたいレストラン、忙しい時間を忘れてゆったり過ごせる雰囲気のいいカフェ……愛されるお店には、料理はもちろん、空間にも訪れる人を引き付ける魅力があります。「建築を知ることは、人生を豊かにする」と語る建築史家の倉方俊輔さんが、食欲と知的好奇心を刺激するスポットを厳選。バラエティー豊かな建築の味わい方を紹介します。いよいよ連載最終回です。

1933年、「初めて」の驚きに満ちた食堂が誕生

 「ガスビル食堂」という名前が、今らしいと思いませんか? モダンで、正統で、日常に根差したちょっといいものがいただけそう。心くすぐる名は、1933年に「大阪ガスビル」が完成すると同時に開業したレストランのものです。当時の人々の視点で、ちょっと店内を訪れてみましょう。

 ……席に着けば、テーブルには純白のテーブルクロスが敷かれています。その上に現れたのは、生のままの大きなセロリ。こんなものを初めて見ました。手にとって、おそるおそる歯を立てれば、シャキッといい音が鳴ります。口の中にみずみずしい香りが広がります。気分を切り替え、味覚を活性化させるオリジナルのもてなしです。

 初体験だったのも当然でしょう。セロリはまだ第2次世界大戦前の日本では一般に流通していませんでした。当時、大阪瓦斯(ガス)会長だった片岡直方は「本物の西洋料理にはセロリは欠かせない」と、開業に当たって米国・カリフォルニアから種を取り寄せ、自ら栽培しました。

 さて、店内を見渡します。こんなに大きなガラス窓は見たことがありません。自然の光が店内に差し込みます。遠くの生駒連山がまるで屏風のようです。それを背にした大阪城も誇らしげ。豊臣秀吉が築いた初代の天守は江戸幕府との戦いで焼失してしまいましたが、それが1931年に鉄筋コンクリート造の日本初の本格的な復興天守として、市民からの寄付によって再建されたのです。

 目の前の御堂筋は、このビルの完成と前後して、それまでの細い通りから約45mもの幅に広げられました。地下には全国初の公営地下鉄として御堂筋線が開通しました。「大阪もモダンになったな」。次の皿にもまだ見ぬ、新鮮な出合いが待っているようで、期待が高まります……。

大阪ガスビルの8階にある「ガスビル食堂」。開放感あふれる大きな窓の向こうに、かつては大阪の街を一望するパノラマが広がっていた
大阪ガスビルの8階にある「ガスビル食堂」。開放感あふれる大きな窓の向こうに、かつては大阪の街を一望するパノラマが広がっていた
往時の眺望を紹介する写真
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