20年以上、キャスターとして第一線を走り続ける長野智子さんの新連載が始まります。日本や世界のニュースの当事者に、長野さんがマイクを向ける……のではなく、ぐいぐい斬り込み、筆を執ります。本編がスタートする前に、まずは、長野さんがどんな人生を送ってきたか、いま考えていることに迫りました。

(上)キャスター卒業の理由、悩み苦しんだ不妊治療 ←今回はココ
(下)報道人として、私が「現場」にこだわる理由

最高視聴率に喜んだ直後に告げられた「キャスター降板」

編集部(以下、略) 長くメインキャスターを務めていたテレビ朝日の報道番組『サンデーステーション』を2020年9月に降板しました。00年に『ザ・スクープ』のキャスターに就任してからずっとテレビ朝日の報道番組の「顔」でしたから、視聴者としては寂しいです。

長野智子さん(以下、長野) ありがとうございます。「ザ・スクープ」「朝まで生テレビ!」「報道ステーション」「サンデースクランブル」「報道発 ドキュメンタリ宣言」「報道ステーションSUNDAY」そして「サンデーステーション」と、20年半にわたって一貫して報道番組に携わらせていただいたテレビ朝日さんには感謝しかないです。

 もちろん、降板を告げられた時は頭が真っ白になるくらい衝撃を受けましたよ。メインキャスターとして関わらせていただいた「サンデーステーション」は、毎週日曜16時30分から始まる90分枠の報道生番組でした。この番組のために私の1週間があったといってもいいくらい生活の中心になっていましたし、20年3月には最高視聴率は18.5%を記録しました。コロナ禍で情報が求められていた時期です。

 ですから「卒業」を告げられた時は、正直「えっ、どうして?」って。視聴率が下がったために番組の看板を変えて再スタート、ということは経験がありましたが、「サンデーステーション」は数字が悪くなかったですからね。思わず、これほど数字が良い時に番組が終了するのは、ドラマの「ドクターX」か「サンデー(ステーション)」くらいですねと口をついてしまったくらいです(笑)。

長野さんがアナウンサーとしてフジテレビに入社したのは、1985年のこと。「オレたちひょうきん族」で注目を集めたが、その頃からずっと報道に携わりたいという思いを抱えていた。「サンデーステーションのメーンキャスターだった時は、生活の中心が毎週日曜夕方の生番組。その番組のために私の1週間があったといってもいいくらいです」
長野さんがアナウンサーとしてフジテレビに入社したのは、1985年のこと。「オレたちひょうきん族」で注目を集めたが、その頃からずっと報道に携わりたいという思いを抱えていた。「サンデーステーションのメーンキャスターだった時は、生活の中心が毎週日曜夕方の生番組。その番組のために私の1週間があったといってもいいくらいです」

―― ビデオリサーチ社が20年3月から、これまで世帯数で割り出していたテレビ視聴率を、個人数で算出する個人視聴率に軸足を移したことも影響していますか。

長野 それは大きいですね。テレビ業界が大きな変革期を迎えていることは肌で感じていました。テレビの若者離れが言い立てられ、さらにコロナ禍の影響もあり、テレビ業界は広告収入がかなり厳しくなっていました。そのためには誰が視聴しているか分かる個人視聴率、そして視聴の傾向から個人のし好が分かるコアターゲットのデータが重用されるようになった。早い話がCMスポンサーを獲得するために、企業が消費ターゲットとしている「13歳~49歳」の年代に向けた番組作りを意識するようになったんです。確かに「サンデーステーション」の視聴者層は年代が高くて若い層をとることへのプレッシャーは感じていました。

 また、SNSの浸透も報道番組の根本を変えましたね。誰もがニュースについて自由に発信することが可能になり、ニュースは報道畑の専門職が語るものから、もっと平場で語り合われるようになった。そんな流れから、顔なじみのタレントさんがキャスターを務めて伝えることで、コアターゲットにニュースを身近に感じてもらえるという考えが、テレビ業界の主流になってきたんです。

「埋もれそうになっている小さな声を届けたい」

長野 今のように危機管理のコンプライアンスが厳格でなかったころには、紛争下のパレスチナ、イスラエル、あるいは米国による空爆時のアフガニスタン・パキスタンの国境の町など、危険地帯への取材にも行かせてもらいました。また東日本大震災、熊本地震など自然災害の現場に何度も通って被災者の声を集め、あるいは冤罪(えんざい)事件などの社会事件も多く取材しました。私が現場を大事にしたのは、「埋もれそうになっている小さな声を大きな声にして届けたい」という一心からでした。

 でも、こういった取材は莫大な時間と経費が必要。SNS時代に現場の当事者自身が発信をするようになった今では効率の悪いやり方かもしれません。一方、個人視聴率やコアターゲットを意識して報道番組を作り始めたテレビ局は、素材に手間暇をかけるよりも、多くの人が興味を持っているニュースやテーマについて、さまざまな立場の人が意見を言うことで深みを持たせるスタイルの番組が多くなりました。正直、テレビ報道はこれでいいのかという疑問もありますが、番組制作のスタイルが変わった以上、私の「卒業」は時代の流れだったのかもしれません。

―― 「小さな声を届けたい」と過酷な現場に足を踏み入れながら、その一方で不妊治療もしていたそうですね。