自分よりも他人の利益を優先する「利他的な生き方」。ARIA読者の中にもキャリアのゴールとその先を見据えて、これまでに積み重ねてきた経験やスキルを社会に還元したい、人の役に立ちたいと考える人は少なくありません。日本では仏教などで古くからある「利他」という言葉が、なぜ今、“幸せ”のキーワードとして注目を集めているのでしょうか。利他をテーマに研究している東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長の伊藤亜紗さんが全3回で解説します。

(1)伊藤亜紗が考える「利他」の本質 ギフトは毒にもなる ←今回はココ
(2)実績を積んだ50代が「利他的キャリア」に引かれる理由
(3)「困っている人を助ける」の選別で善意が届きにくくなる

編集部(以下、略) 伊藤さんが研究者として在籍する東京工業大学では、2020年2月に「未来の人類研究センター」という組織ができ、「利他プロジェクト」の研究チームが立ち上がりました。今、個人だけでなくビジネスの現場などでも利他の考え方が注目を集めています。仏教の教えなどでは昔からあった利他がなぜ今注目されているのでしょうか。

伊藤亜紗さん(以下、伊藤) 新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)の影響は大きかったと思います。ウイルスの感染によって、「人と人のつながり」が可視化された出来事でした。自分が今日友達と会食をすることが、もしかしたら周囲、さらには地球の裏側にいる人を死に追いやるかもしれない。パンデミックの最初の頃は、特にそういう感覚が強かったですよね。自己中心的に物事を判断し行動することが、思いもよらないところでつながるという危機感を持つようになったことが、利他という言葉が注目されるきっかけになったように思います。

他者のためにする合理的な行動とは?

―― 人々が世界とのつながりを肌感覚で意識し、「現状を変えなければいけない」という状況に、利他の考え方がマッチしたのですね。ところで、そもそも利他とはどのようなことを意味しているのでしょう?

伊藤 利他という言葉の輪郭は非常に曖昧(あいまい)で、人や国によっても捉え方は異なります。先ほどのパンデミックの例でいうと、深刻な危機に直面した今こそ互いに競い合うのではなく、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らなければいけないという視点。それを一番明確に言ったのは、フランスの経済学者ジャック・アタリです。

 アタリは「利他主義は最も合理的な利己主義だ」と定義しました。そして、他人にウイルスをうつさないようにすることが、結果的に自分にもうつらず自分のためになる。人のためにする行動であり、一見非合理的な感じがするけれど、巡り巡って自分の利益になるから合理的なのだということを、メディアなどを通じて世界中に発信したんです。こうした「合理的利他主義」は、現代の利他を巡る主要な考えの1つになっています。

 でも、私はアタリの考え方に対して「何か違う」と思いました。仏教でいう「忘己利他」(もうこりた、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」という最澄の教え)の精神をベースに利他の概念を持っている人は、私と同じような違和感を持つのではないでしょうか。

―― 伊藤さんは合理的利他主義に対して、どのような違和感を持ったのでしょう?

「利他は最終的に自分の利益になるからする行為だという合理的利他主義の考え方に、私は『何か違う』と思いました」。伊藤さんは2021年に共著で『「利他」とは何か』(集英社)を出版
「利他は最終的に自分の利益になるからする行為だという合理的利他主義の考え方に、私は『何か違う』と思いました」。伊藤さんは2021年に共著で『「利他」とは何か』(集英社)を出版