人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。写真家・映画監督の蜷川実花さんの第2回です。師匠に付かず、独学で写真技術を身に付けていった蜷川さん。苦心して初の写真集を出し、仕事を広げていきます。29歳で木村伊兵衛写真賞を受賞。独自の世界観を明確に打ち出していったのは周到なセルフブランディングでした。

(1)自分の表現求め、撮り始めた10代
(2)独学で広げた仕事、世界観で勝負 ←今回はココ
(3)伝え続けたい「自立」、絶えず前進


蜷川実花
写真家・映画監督
蜷川実花 1972年、演出家・蜷川幸雄の長女として東京に生まれる。多摩美術大学在学中からフォトグラファーとして活動を始め、2001年の第26回木村伊兵衛写真賞ほか、多くの写真賞を受賞。映像作品も多く手がける。監督作品に映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』(19年)、Netflixオリジナルシリーズ『FOLLOWERS』(20年)など。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事も務める。

 大学卒業後、写真家として本格的に活動を始めた頃の仕事は、雑誌のポートレート撮影が中心でした。「今日15時から撮影ね」という無茶振りや、会議室のような悪条件での撮影も多かったのですが、おかげで、どんな場所でもすてきに撮ることに関しては鍛えられたと思います。もちろん、うまくいかないこともありました。フィルム撮影が一般的だった当時、フィルムを入れずにシャッターを押し続け、途中まで写真が撮れていないという恐ろしい失敗をしたり、被写体とうまくコミュニケーションが取れず、いい表情が撮れずに悩んだり。

 師匠に付いたり、撮影スタジオのアシスタントを経験することなく、写真を独学で学んだ私は、撮影の基本や現場の流れも知らないままでした。フィルムでの本番撮影の前にポラロイド写真を撮って確認することも、照明の当て方も分からなかったし、自分でプリント(現像)ができないので、街の写真屋にサービスプリントをお願いしていました。ある編集者に、「来週までに自分でプリントできるようになったら仕事を頼みたい」と言われ、1週間で道具をそろえて、狭い部屋に暗室を作り、必死でプリントの仕方を覚えたことも。失敗し、恥をかき、必要に迫られて技術を身に付けていきました

写真家として活動を始めた頃。独学で学び、失敗し、必要に迫られて技術を身に付けていった
写真家として活動を始めた頃。独学で学び、失敗し、必要に迫られて技術を身に付けていった