人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、ARIA読者にお届けします。ポピンズ代表取締役会長 中村紀子さんの保育、ベビーシッター派遣事業大手企業であるポピンズを立ち上げるまでのキャリアをたどる1回目。ファーストキャリアのアナウンサー時代を振り返ります。

(1)夫の会社倒産でアナウンサー復帰 ←今回はココ
(2)保育の岩盤規制改革に挑戦し続けた
(3)猛烈ワンマンだった私に社員は反発


中村紀子
ポピンズ代表取締役会長
中村紀子 大学卒業後、1973年にNETテレビ(現・テレビ朝日)にアナウンサーとして入社。76年に退社後はフリーランスで活躍。85年にJAFE(日本女性エグゼクティブ協会)を設立し、代表に。87年にジャフィサービスを設立し、ポピンズ改称を経て保育・介護事業のリーディングカンパニーに導く。全国ベビーシッター協会副会長、厚生労働省 女性の活躍推進協議会委員などを歴任。著書は『「なぜダメなの?」からすべてが始まる』(日本経済新聞出版)

 東京・広尾の小さなオフィスで、保育サービスの会社を立ち上げてから35年がたちました。保育、ベビーシッター派遣事業では国内最大手となり、「保育の岩盤規制に風穴を開けた」と言われることも多いのですが、すべては、「働く女性を応援したい」という一心からです。「結婚したら主婦になる」と当然のように思っていた私が経営者になるなんて、人生は分からないものだなと、改めて感じます。

 私は福島県で生まれましたが、父が防衛庁(現・防衛省)に勤めることになり、7歳のとき、両親、4つ下の弟とともに東京に引っ越しました。要領の良さも手伝って、学校の成績は常にトップ。いわゆる優等生でした。

 当時の将来の夢は、日本航空(JAL)の国際線の客室乗務員。まだ気軽に海外旅行に行けなかった当時、世界を飛び回る仕事に憧れたのです。高校時代は海外にペンフレンドを持ち、大学4年のときには、外務省の外郭団体主催の海外派遣でドイツへ留学。初恋の相手もドイツ人でした。

 ところが、私は留学先で体調を崩して入院し、JALの採用試験を受けることができなくなってしまったのです。落ち込みましたが、立ち直りの早さだけが取りえ。すぐに前を向き、当時、内申書がなくても受験できたNETテレビ(現・テレビ朝日)のアナウンサーを目指すことに。応募者2000人のなかから合格したのは、私を含めて3人でした。