人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。「爆笑問題」など多くのタレント、構成作家を擁する芸能プロダクション、タイタン社長の太田光代さん。33歳で受けた不妊治療の経験を率直に語ると、不妊に悩む女性たちから大きな反響を呼びます。43歳であらためて不妊治療に取り組み、不妊と不妊治療への社会の理解を広げることはライフワークだと意識をするようになります。

(1)ダメでもやってみる人生がいい
(2)次々湧くアイデア、社長業は天職
(3)不妊治療で芽生えた新たな使命感 ←今回はココ
(4)コロナで想定外の日々を乗り越えて


太田光代
太田光代 1964年東京都生まれ。芸能プロダクション・タイタン社長。モデルを経て、タレントとしてテレビ番組などで活躍。26歳のとき、お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光と結婚。93年にタイタン設立。そのマネジメント力で爆笑問題をブレイクさせ、現在も多くのタレントや構成作家を抱える。ハーブ・アロマの専門店や生花店も経営。著書に『私が「にんぎょひめ」だったころ』(集英社インターナショナル)、『奥さまは社長』(文藝春秋)など

 今で言う「ニート婚」だった太田と私には、「結婚したから子どもをつくろう」という考えはありませんでした。そもそも、私は子どもが苦手。幼少期に入院していた小児病棟で子どもたちと仲良くできなかった経験から、子どもにどう対応していいか分からないし、子どもの目線で接することもできない。最初から対等に話せる大人の状態で生まれてくるといいのにと思っていたくらいです。

 夫(太田光さん)も子どもは嫌いと言うけれど、私ほど嫌いではないと思います。でも結婚から6年たっても妊娠しなかったので、できないなら仕方がないと思っていました。

 しかし、彼の親から「孫の顔が見たい」と言われたときはさすがに考えました。私たちは一人っ子同士の結婚ですから、うちに子どもができないと孫の顔を見せてあげられない。嫁として、彼の両親に孫を抱かせてあげたい。だったら、自分でできる努力はしてみよう――。夫は「そこまでしなくていいよ」と言っていましたが、33歳のときに不妊治療を始めました。

 これが予想以上に大変でした。私はホルモン治療が中心でしたが、病院には月の半分以上通わなくてはならないし、薬の副作用もつらかった。吐き気がひどく、電車に一駅分も乗っていられない状態でした。午前中に診察を終わらせて午後から仕事をしていると、仕事関係者に「太田さんは朝が弱い」と勘違いされたし、体調が悪いから仕事が思うようにはかどらない。ホルモンバランスが変わると感情が乱れ、自分だけが世間から孤立しているような気分にもなりました。