人生には思いもよらぬことが起きるもの。肩の力を抜いて柔軟に「私の生き方」を見つけていこう――。先輩たちが半生を振り返って贈る、珠玉のメッセージ。日経WOMANの看板リレー連載を、日経ARIA読者にお届けします。「爆笑問題」など多くのタレント、構成作家を擁する芸能プロダクション、タイタン社長の太田光代さん。先天性股関節脱臼で3歳半まで入院生活を送ります。つらい記憶が残る10歳の頃、未来の可能性に気づき、興味のあることはとにかくやってみよう、ダメでもやってみる人生を生きようと決意します。

(1)ダメでもやってみる人生がいい ←今回はココ
(2)次々湧くアイデア、社長業は天職
(3)不妊治療で芽生えた新たな使命感
(4)コロナで想定外の日々を乗り越えて


太田光代
太田光代 1964年東京都生まれ。芸能プロダクション・タイタン社長。モデルを経て、タレントとしてテレビ番組などで活躍。26歳のとき、お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光と結婚。93年にタイタン設立。そのマネジメント力で爆笑問題をブレイクさせ、現在も多くのタレントや構成作家を抱える。生花店も経営。著書に『私が「にんぎょひめ」だったころ』(集英社インターナショナル)、『奥さまは社長』(文藝春秋)など

 生まれて最初の記憶は、白い服を着た人がたくさんいる病院の中です。

 私は先天性股関節脱臼で、1歳半から入院していました。3歳半くらいで退院するまでずっと、病院が私の家でした

 当時、整形外科の小児病棟には先天性の病気などを抱える子どもたちが入院していました。でも彼らの多くは元気だし、動ける。私の足はギプスで固定されていて、壁によりかかっていないと起きていられないし、思うように動けない。幼心に「動けない自分は異質な存在だ」と感じていました。周りの子も同じように感じていたのでしょう。いつも仲間はずれにされていました。

 一番つらかったのが、おやつの時間。看護師さんが人数分の菓子袋を持って来るのですが、私にはいつも回ってこなかった。おやつを取りに行けない私の分は、誰かが食べてしまうのです。子どもの頃、おやつを奪われたときの何とも言えない感情は強烈な印象として残っているし、いまだに思い出したくない記憶です。

 ギプスが外れて退院すると、私はすぐに歩き始めました。中学までは飛び跳ねるように歩いていると言われていましたが、全く気にならなかった。それまで自分のことを異質な存在と感じていたのに、退院して歩いた瞬間から、私も普通の人なんだと思えたのです

動けない入院生活を送った幼い頃。自分は異質な存在だと感じていた
動けない入院生活を送った幼い頃。自分は異質な存在だと感じていた